甦る法律家フリッツ・バウアー ――ナチの過去の克服をめぐる近年のドイツの法事情――

甦る法律家 フリッツ・バウアー
――ナチの過去の克服をめぐる近年のドイツの法事情――

 1 忘れられた法律家
 戦前のナチの不法な過去と絶縁し、戦後のドイツ社会と司法を民主化するために命がけで闘った法律家がいた。フリッツ・バウアーである。1903年7月16日にシュトゥットガルトに生まれ、ミュンヘン、チュービンゲンなどの大学で法律学を修め、経済法の研究で法学博士号を取得した。25才の時、ドイツ史上最年少の若さでシュトゥットガルト区裁判所判事に就任した。才能が高く評価された法律家であったが、1933年にナチが政権を掌握するや否や、その宗教的・人種的出自ゆえに、また社会民主主義の政治思想を理由に裁判官職から追放され、ホイベルク強制収容所に収容された。幸運にも収容所から出所できたのもつかの間、日増しに強まるユ ダヤ人迫害政策のあおりを受けて、1936年にデンマークへ、さらに1943年にはスウェーデンへと亡命を余儀なくされた。そして、敗戦後の1949年にドイツに帰国し、1950年にニーダーザクセン州検事長に、次いで1956年にヘッセン州検事長に就任した。ドイツ社会と司法を民主的に再生させるべく、アウシュヴィッツの犯罪人を法廷に連れ出し、その不法な過去の全貌と責任を司法の場において追及するために尽力した。肉体的・精神的な疲労が重なり、タバコとアルコールによって健康がむしばまれ、1968年7月1日、自宅の浴槽で溺死しているところを裁判所職員に発見された。享年65才。彼の葬儀はフランクフルト・アム・マインで執り行われ、彼の遺灰は両親が眠るスウェーデンのイェーテボリに移送された。
 戦後ドイツにおいてナチの過去の克服が取り組まれてきたことは知られている。連合国は戦前の司法制度を全面的に改革し、ナチの刑罰法規と刑事手続法を改廃した。ニュルンベルク国際軍事裁判では、ナチの主要戦争犯罪人が裁かれた。アメリカ占領地区では、その他の犯罪人が職種毎に分類されて、裁判が継続された。ナチの裁判官や官僚法曹の責任を追及した法律家裁判も実施された。官僚については、非ナチ化審査機関による審査が実施され、その関与と責任に応じた公職追放を含む処分が実施された。大学教員についても、いわゆるキール学派の刑法学者ゲオルク・ダームやフリードリヒ・シャフシュタインなどは教授資格こそ剥奪されなかったものの、刑法講座から追放された。また、ホロコーストの生存者の生々しい証言は、文学作品や映画において表現され、教育の場でも語り継がれた。1960年、アルゼンチンのブエノスアイレスに潜伏していたアドルフ・アイヒマンが、イスラエルの情報機関によってイェルサレムに移送されて裁判にかけられ、全世界が注目する中で死刑に処された。1960年代半ば、アウシュヴィッツ強制収容所の親衛隊所属の司令官や看守たちを裁いたフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判もまた外国の報道機関からも注目され、世界に向けて報じられた。これらの裁判を仕掛けたのは、検事長フリッツ・バウアーであった。
 それにもかかわらず、バウアーのことはほとんど知られていない。アイヒマン裁判やアウシュヴィッツ裁判について語られることはあっても、それを推し進めた検事長の名前が思い出されることはない。十数年前、あるドイツ人の法学部生がアウシュヴィッツ裁判に興味を持ち、バウアーの経歴と業績について刑法担当講師に質問した。その講師は「知らない」と答えたそうである。何故か。この講師が勉強不足だったからか。バウアーが興味を抱くほどの存在ではなかったからか。戦後ドイツ社会は社会的・民主的法治国家として再生し、過去の問題はすでに克服済みであり、もはや問題にする必要がなかったからか。理由は至極単純である。終わった話だからである。戦争の記憶が諸国民の間で共有されていた戦後直後の時期であれば、関心事になりえたであろう。しかし、ヨーロッパにおいて成功を収めた資本主義の優等生にとって、それはもう昔の話なのである。それが現在において話題になっても、アクチュアルな問題ではなく、過去形で語られるべき問題でしかない。刑法担当の若手講師が「知らない」と答えたのは、彼が勉強不足だったからではない。少なくとも通説と判例法理に基礎づけられた刑法解釈学にとっては、関心事になりえない過去の話だからである。従って、フリッツ・バウアーの名前が記憶されなくても、不思議なことではない。アウシュヴィッツ強制収容所で起こった出来事についても同じである。

 2 記憶の中の法律家
 アウシュヴィッツ強制収容所は、絶滅収容所と呼ばれた。それは、犯罪人や政治犯を収容する刑事施設ではなく、ユダヤ人問題の最終的解決を唯一の目的として設置された「屠殺場」のような場所であった。それゆえに、機械的な流れ作業によって製品を効率よく生産する大規模工場のような運営がなされていた。
 ユダヤ人を乗せた列車がアウシュヴィッツ収容所の最寄り駅に到着する。親衛隊員が彼らを降車させる。その財産を没収し、男女、老人・子ども、労働不能者と可能者に分ける。労働不能者は、ガス室に送られる。衣服を脱がされ、毛髪を刈り取られ、ガス室に入れられる。ガスを噴射するボタンが押され、殺害される。死体から金歯を抜き、焼却場に搬送する。簿記係は没収された財貨の記録を詳細につけ、看守による横領を監視する。労働可能者は、強制収容所の作業施設に送られる。髪を切られ、シャワーを浴びせられ、縞模様の囚人服を着せられる。平均して3か月後には死に至るまで、労働奴隷として酷使される。このように計画された業務が日々繰り返される。これがアウシュヴィッツ強制収容所の日常性であった。
 確かに、残虐な恣意を気ままに実行した狂気の看守がいたのは事実である。例えば、ヴィルヘルム・ボーガーは、児童輸送列車が到着し、そこから降りてきた子どもがリンゴを持っているのに気づくと、その子どもの足をつかんで振り回し、その頭部を収容所の仮設小屋の塀に打ち付けた。その手から転がり落ちたリンゴをボーガーは拾い上げ、平然と食べた。オズヴァルト・カドゥークは、被収容者がかぶっている帽子を奪い取り、立入禁止区域の境界線の先に投げ飛ばした。被収容者が急いで帽子を取りに行くと、カドゥークが期待したとおり、衛兵は銃によって頭部を打ち抜いた。また、軍医のヨーゼフ・クレーアは、死亡者数を記録する日報の「端数」を切り上げるため、被収容者病棟を巡回して2、3人殺した。つまり、28人を30人に、あるいは37人を40人に人数調整するために殺害を重ねた。このような殺人が繰り返され、狂気の殺人が日常化していたことは事実である。
 しかし、強制収容所における大量殺人は、一握りの狂人によって実行されたのではない。圧倒的多数の被収容者の殺害は、強制収容所における高度に組織化された能率的で効率的な分業と協業によって実行されたのであり、そのような作業なしにはホロコーストはありえなかったのである。強制収容所の関係者は、必ずしも相互に連絡を取り合って作業に従事していたわけではなかった。その限りにおいて言えば、彼らは自己に割り当てられた作業に従事し、その任務を全うしたにすぎない。しかも、それらは必ずしも謀殺罪などの犯罪構成要件に該当する行為ではなかった。しかし、個々の作業は総体として強制収容所の唯一の目標の実現に向けられた分業化された工程の一部であり、そのいずれもが収容所のメカニズムを機動させるために不可欠な部分であった。腕時計の秒針、分針、時針が文字板の上で正確に時を刻み、日付と曜日を切り替えていくように、個々の関与がなければホロコースト全体は成立しえなかった。駅の荷降台でユダヤ人を選別した者、労働不能者をガス室に連れて行った者、髪を刈り取った者、ガスの噴射ボタンを押した者、死体から金歯を抜いた者、それを焼却した者、ユダヤ人から没収した財貨を記録・管理した者、労働可能者のために作業用の囚人服を準備した者、彼らを死に至るまで酷使した者、そのいずれもがユダヤ人の抹殺という唯一の目的の実現に向かって協働したホロコーストの一部であり、かつ全体であったのである。それゆえ、バウアーはその全員がユダヤ人の抹殺、すなわち謀殺罪を共同して実行したと主張したのである。被収容者の殺害を指揮した強制収容所の所長や司令官だけでなく、その指揮のもとに日常的な業務に従事した者、さらには1941年以降にユダヤ人問題の最終的解決を立案・計画した党幹部や司法省の官僚法曹などを含む全員が強制収容所のシステムを稼働させ、謀殺罪を実行した正犯の責任を負わなければならないと指摘し、1963年4月16日、証拠関係から関与が明らかな23人を謀殺罪の共同正犯として起訴したのである(判決時は20人)。
 これに対して、1965年8月10日、フランクフルト・アム・マイン州裁判所が20人の被告人に認定したのは、謀殺罪の共同正犯ではなく、その幇助犯であった。すなわち、一方では党幹部や司法官僚によるホロコーストの計画・立案、その実行の指揮を謀殺罪の正犯として捕捉するために、正犯概念を拡張しながら、他方でアウシュヴィッツ強制収容所の所長や看守などによる直接的な殺害を謀殺罪の幇助犯として観念するために、幇助概念を拡張することによって、外形的には謀殺罪の実行行為にあたる行為をホロコーストの計画を全体として円滑かつ確実に遂行するための補助的行為として扱ったのである(いわゆる故意ある幇助的道具)。ユダヤ人問題の最終的解決を計画・立案し、その実行を指揮した謀殺罪の正犯はヒトラーだけであり、その他の者は忠実な幇助犯でしかない。ユルゲン・バウマンはこのような謀殺罪規定の適用を「1人の正犯を6千万人が幇助した」と揶揄したことがあったが、それでもフランクフルト州裁判所は、収容所の司令官や看守が職務に忠実であり、それゆえ謀殺罪の構成的身分(下劣な動機)を有していなくても、その幇助犯の成立を認めたのである。しかし、その直後に事態は急変した。
 1960年代は、刑法改正作業が進められた時代であった。当時の刑法によれば、加減的身分犯の共犯のうち、その規定が適用されるのは身分のある共犯だけであり、身分のない共犯に対しては刑が加重・減軽される以前の基本犯の規定が適用された(旧50条2項)。その公訴時効も基本犯の法定刑を基準にして決定された。これに対して、構成的身分犯の共犯に関しては規定がなかったため、身分のない共犯にも構成的身分犯の規定が適用され、その公訴時効についても構成的身分犯と同様とされた。だが、1962年刑法改正草案は、構成的身分犯の共犯のうち身分のない者について、その刑を減軽するとしつつ(草案33条1項)、その公訴時効については構成的身分犯と同様とするとした(草案127条3項)。つまり、構成的身分のない共犯への刑は減軽されるものの、公訴時効はその正犯と同じとされた。謀殺罪の共犯に関して言えば、下劣な動機などの構成的身分がなければ刑は減軽されるが(謀殺罪の終身刑が減軽されると15年以下の自由刑になる)、その公訴時効は正犯と同じ20年であった(起算点は後に連邦共和国の行政権が成立した年の1949年12月31日とされた)。これが1962年刑法改正草案の内容であった。
 しかし、連邦司法省は、刑法改正と同時並行で進められていた秩序違反法の立法作業において、刑法改正草案から33条1項だけを抜き出し、それを秩序違反法に伴う刑法改正条項(秩序違反法施行法1条6号)に取り入れて、連邦議会に提案し、1968年5月24日に可決させたのである(施行は10月1日)。それによって、構成的身分犯の共犯のうち身分のない者の刑が(未遂処罰規定の適用により)減軽されることになった。しかし、公訴時効期間に関する規定は従前のままであったため、その期間は減軽された刑を基準に算定されることになった。その結果、謀殺罪の共犯のうち、職務に忠実であったがゆえに、「下劣な動機」に基づいていたとは認定されなかった者については、その公訴期間は(1945年5月8日のドイツの降伏から起算して)15年になった。つまり、1960年5月8日の時点で公訴時効が完成していたことになったのである。この法改正を仕掛けたのは、エドゥアルト・ドレーヤー(戦前はインスブルック特別裁判所検事)とヨーゼフ・シャフホイトレ(戦前からの司法省の官僚法曹)であった。刑法大家のヴィルヘルム・ガラス(大刑法委員会委員)が、彼らが仕組んだ法案の仕掛けに気づかなかったはずはない。社会主義ドイツ学生同盟幹部のヨアヒム・ペレルス(フランクフルト大学経済法研究所助手)は、バウアーの葬儀の後、68年冬学期闘争を準備すべくドイツの諸大学をオルグで奔走していたため、秩序違反法施行法を精査する余裕がなかったのかもしれない。当のバウアーは、肉体的にも精神的にも疲れ果て、それどころではなかったに違いない。
 バウアーは、1965年8月にアウシュヴィッツ裁判が結審する直前に、ナチスの安楽死作戦を計画・指揮した帝国司法省事務次官フランツ・シュレーゲルベルガーら司法省の高級官僚を謀殺罪の幇助犯で起訴する準備に取り掛かるよう検察官のヨハネス・ヴァルロに指示し(いわゆる第2次アウシュヴィッツ裁判)、1965年4月22日に起訴させた(この時期は謀殺罪の公訴時効の起算点はまだ1945年5月8日とされていた)。しかし、そのうち被告人の数名については、その行為が「下劣な動機」に基づいていたことが証拠で裏付けられていなかったため、この謀殺罪の身分のない幇助犯については公訴時効は完成しているとして、手続は打切られた。
 このようにしてアウシュヴィッツ裁判は終わり、過去の歴史になった。そして、バウアーの名前は記憶から薄れていった。

 3 復活する法律家
 あれから20年が過ぎた。1989年、フランクフルト・アム・マイン市長のフォルカー・ハウフ(社会民主党)がドイツにホロコースト記念館を設立することを提案した。その後、5年にわたる議論と準備を経て、ホロコーストの歴史とそれがもたらした結果を学際的に研究する機関としてフリッツ・バウアー研究所が設立された。ナチ体制が崩壊し、多くの犠牲者が強制収容所から解放されて半世紀を経た年に過去の痛ましい歴史を記憶する新たな試みが始まった。
 ホロコーストを記憶し、ナチの犯罪に向き合うことは、依然としてドイツ社会の重要課題であった。というより、その重要性はますます高まっていた。ナチ時代の社会がいかなる状況であったか、そこで人々はどのような毎日を過ごしていたか。この問題を考える時、世代間において対立が生ずることは避けられなかった。「あの時代、お父さんは何をしていたの」。若い世代は年老いた世代に素朴にたずねる。しかし、それはナチの犯罪への関与の度合いに応じて、その責任を追及する厳しい質問であった。時空を超えて、過去を冷静に見つめることができる子どもの世代にとって、その問いは戦後ドイツの法と正義の表現でもあった。親の世代は、社会的な発言の機会が奪われ、行動の選択肢も狭められたことを理由として挙げ、ただ戦前に生まれた不幸を恨むだけであった。このようにしてナチの犯罪に関与した人々は社会の片隅に追いやられた。しかし、そのイデオロギーや社会思潮の淵源にある病巣がえぐり出されたわけではなかった。ホロコーストは、戦争犯罪、民族謀殺、人種主義を指し示す普遍的な隠喩になったが、ホロコーストが人間と社会に残した破壊的な影響は隠されたままであった。その課題を引き受けたのがフリッツ・バウアー研究所であった。
 抹殺された人々を記憶する方法や形式には、決定的なものはない。これで十分であるといったものもない。親衛隊員が向けた銃口の前で怯えるユダヤ人少年は、抵抗するすべもなく、ただ両手を挙げるしかなかったが、ナチのユダヤ人迫害を証明する重要な証拠として現代史の記憶に残されるのはその写真だけである。隊員を見つめる少年の眼。噛みしめた唇。凍り付いた背筋。それを記憶するための作業こそ追求されるべきである。このような意味において抹殺された人々を想起し、彼らを記憶することの意味を繰り返し問わなければならない。過去の歴史を調査・実証し、その時々の我々が認識した事柄を繰り返し反省しなければならない。フリッツ・バウアー研究所は、それを後押しする。アウシュヴィッツとその後の世界を認識し、それを学術的に再構成し、記憶の可能性と限界を問い続ける。そうすることによって、アウシュヴィッツの過去が現代の政治文化にもたらした意味をより深く理解することができる。フリッツ・バウアー研究所は、自身の存在意義をこのように規定する。
 しかし、それが設立に至った1989年から1995年までは、ナチの不法な過去をめぐる歴史認識が大きく揺れ動いた時期と重なった。それは、1980年代後半に起こった「歴史家論争」やドイツ統一後の旧東独の第2の過去をめぐる問題、さらには「ゴールドハーゲン論争」に見舞われた歴史認識の試練の時期であった。遠くない過去の歴史において、また現代においても、大国の軍事的覇権のもとで他の国々と民族が甚大な被害を受けている。国内における人種的・宗教的少数派民族に対する弾圧は苛烈さを増している。それなのに、なぜドイツ人だけが過去の責任を問われ続けなければならないのか。このような問いの背景には、ドイツ人の失われた誇りを取り戻そうとする本能的な情念の衝動があったのかもしれない。また、歴史の過去を背負い続けるあまり、ドイツ語を読み書きできない、非ドイツ系住民の可能性すらある元親衛隊員に「ナチ」のレッテルを貼って過去を克服したが、そうすることによって、克服される過去とはいかなるものなのか。B・シュリンクが『朗読者』において滲ませたのは、過去を引きずって歩んでいくことへの疲労感ではなかったのか。ドイツ歴史学においては、ホロコーストを生み出した原因として、ドイツ資本主義が英仏などよりも遅れて発達したことが背景にあったであるとか、また反ファシズムの帝国主義的包囲網を打破すべく独ソ戦に賭け、党と国家機関がそれをエスカレートさせた失策の表れとしてホロコーストを説明する議論(構造派)、あるいは社会関係的な要因よりは、むしろヒトラーなど一握りのナチ党幹部の個人的な意図や役割を重視し、その歪んだ表現がホロコーストであったといった議論(意図派)が一般的に主張されてきた。これに対して、アメリカの若手歴史学者ダニエル・ゴールドハーゲンはそのような対抗的な議論には「普通のドイツ人」の存在の視点が欠けていると、厳しく批判し、普通のドイツ人に反ユダヤ主義のイデオロギーが深く浸透していたことが彼らをしてホロコーストの自発的協力者に仕立てたことを実証した。このような外国人による研究に対してドイツ人歴史家は学派の違いを超えて総反撃したが、それにもかかわらず一般のドイツ人読者はゴールドハーゲンの主張に好意的であった。それは、アウシュヴィッツ裁判においてフリッツ・バウアーが主張していた絶滅強制収容所のメカニズム、すなわち強制収容所に勤務していた全員がその唯一の目的であるユダヤ人問題の最終的解決にとって不可欠な存在であったという事実認識、その全員が謀殺罪の共同正犯(あるいは少なくとも幇助犯)の責任を負わねばならないという法的判断を想起させるものであった。

 4 生き続ける法律家
 バウアーがこの世を去って30余年、彼の精神の復活の時が来た。
 フリッツ・バウアー研究所の設立に伴って、研究会活動と出版活動が進められた。ヨアヒム・ペレルス(ハノーファー大学・政治学)とイルムトゥルード・ヴォヤーク(フリッツ・バウアー研究所)がバウアーが1950年代から60年代に執筆した論稿を『法秩序の人道性』(1998年)として共同編纂したのを皮切りに、マティアス・モイシュ『独裁制から民主制へ』(1956-1968年)』(2001年)、ミヒャエル・グレーフェ『60年代におけるナチの暴力犯との司法的・法政策的な関わり』(2001年)、イルムトゥード・ヴォヤーク「フリッツ・バウアーと1945年以降のナチ犯罪の克服」(2003年)、同『フリッツ・バウアー 1903-1968年』(2011年)が続けて公表された。ただし、これらの多くはバウアーの遺志を継承するために執筆されたものであり、バウアーの法的実践とその功績を肯定的に評価する傾向が強かった。その光と陰の部分を知るためには、ローネン・シュタインケ『フリッツ・バウアー アイヒマンを追いつめた検事長』(2013年)を待たなければならなかった。十数年前に刑法担当講師にバウアーについて質問したあの学生は、敬虔なユダヤ教徒の両親のもとで厳格に育てられたバウアーの幼少期、ユダヤ系学生運動に関わり、若くして社会民主党の論客として活動した時代、ドイツ史上最年少の区裁判所判事としての仕事ぶり、強制収容所での日々、亡命先の北欧での活動など等身大のバウアーに迫った。それはドイツにおいて想像以上に好評を博し、彼をスクリーンで描く試みが続いた。ジュリオ・リッチャレッリ監督『顔のないヒトラーたち』(2014年)、ラース・クラウメ監督『アイヒマンを追え』(2016年)は、欧米・日本で多くの観客を動員した。テレビドラマのシュテファン・ワーグナー監督『検事長の記録』(2016年)の放映後、アウシュヴィッツとバウアーのことが茶の間の話題になった。
 それはドイツの政治文化にも大きく影響した。連邦司法大臣ハイコ・マースは、就任直後の2014年、シュタインケに対してドイツの連邦レベルの裁判官、検察官、司法省幹部を前にしてバウアーについて話すよう依頼した。「フリッツ・バウアーを模範にせよ」。これがスローガンとなった。ドイツ外務省の委託研究班が外務省とナチ犯罪の関係を調査研究した報告書『ドイツ外務省〈過去と罪〉』(2010年)が公表され、連邦司法省もそれを契機にローゼブルク・プロジェクトを立ち上げ、戦後の連邦司法省とナチとの関係について歴史学者と刑法学者に研究を委託し、その報告が『ローゼンブルクの記録』(2016年)としてまとめられた。連邦司法省――そこはフリッツ・バウアーにとって「敵地」も同然であった――自らもバウアーの遺志を引き継ぐために、2015年にフリッツ・バウアーの名を冠した「人権と現代法学史研究奨励賞」を設立し、若手法学研究者の研究の支援を開始した。それ以外にもバウアーの名は至る所で見ることができた。2012年9月、戦後直後にバウアーが検事長として任務についたニーダーザクセン州ブラウンシュヴァイクに彼の名を冠した広場が設けられた。2017年3月、フリッツ・バウアーが検事長時代に住んでいたフランクフルトのフェルトベルク通り46―48番地の住宅が記念館として保存された。ノルトライン・ヴェストファーレンのザンクト・アウグスティンに2011年に設立された総合学校が2017年5月から「フリッツ・バウアー総合学校」として新たにスタートした。また同月、フランクフルト・アム・マインでは、州裁判所内に「フリッツ・バウアー講堂」が設けられた。
 さらに、近年ではナチ犯罪の訴追は拍車がかかったかのように続けらている。2009年8月11日、ミュンヘン州裁判所は、第2次世界大戦中の1944年にイタリア中西部トスカーナ州で民間人10人の殺害を命じたとして、ナチス・ドイツ軍元少尉ヨーゼフ・ショイングラーバー(90才)に終身刑を言い渡した。2011年5月12日、ミュンヘン第2州裁判所は、ソビボール強制収容所でユダヤ人2万8千人以上の殺害に関与したとして、元看守ジョン・デムヤニュク(91才)に禁錮5年の刑を言い渡した。2015年7月15日、リューネブルク裁判所は、アウシュヴィッツ強制収容所で簿記係として勤務し、約30万人の謀殺を幇助したとして、オスカー・グレーニング(94才)に禁錮4年の刑を言い渡した。2016年6月19日、デトモルト裁判所は、アウシュヴィッツ強制収容所で看守として17万人の謀殺を幇助したとして、元親衛隊のラインホルト・ハニング(94才)に禁錮5年の刑を言い渡した。
 以上のようなフリッツ・バウアーをめぐる近時のドイツの法的実践をどのように評価し、その理論化を図っていくべきか。更なる取り組みに注目したい。

 *詳細は以下の文献を参考にされたい。
・ローネン・シュタインケ(本田稔訳)『フリッツ・バウアー』(アルファベータブックス・2017年)
・本田稔「過去の克服とフリッツ・バウアー」立命館法学369=370号(2017年)607頁以下。
・本田稔「現代司法における戦前・戦後の断絶と連続」法と民主主義524号(2017年12月)31頁以下。
・本田稔「法と正義の狭間に立つアウシュヴィッツ裁判」季刊戦争責任研究第90号(2018年夏季号)93頁以下。
・イルムトゥルード・ヴォヤーク(本田稔・朴普錫訳)「フリッツ・バウアーと1945年以降のナチ犯罪の克服」立命館法学337号(2011年)559頁以下。
・ハイコ・マース(本田稔訳)「フリッツ・バウアー」立命館法学373号(2017年)487頁以下。
・ハイコ・マース(本田稔訳)「ローゼンブルクの記録」立命館法学374号(2018年)388頁以下。

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