アンドレアス・ロート あの時、法であったものが、今になって不法であるなどありえない(1)

アンドレアス・ロート あの時、法であったものが、今になって不法であるなどありえない(1)

アンドレアス・ロート
 あの時、法であったものが、今になって不法であるなどありえない(1)
――帝国議会議事堂放火訴訟においてマリヌス・ヴァン・デル・ルッベに言い渡された有罪判決の破棄を勝ち取るための闘い――

 第一章 序論
 第二章 前史
 第三章 連邦共和国初期における再審
 第四章 他の破棄手続の事例
 第五章 2007年のヴァン・デル・ルッベ事案の判決
 第六章 今日的展開
 第七章 結論

 第一章 序論
 「あの時、法であったものが、今になって不法であるなどありえない」。これは、元司法大臣ハンス・フィルビンガー1)の発言からの引用である。この発言は、第二次世界大戦中に軍事裁判所の裁判官あるいは検察官として関わり、1970年代末に責任追及された事件の死刑判決に関して述べたものである。引用された発言は、道義的・政治的な領域を超えて、具体的な法学的次元にまで及んでいる。裁判所の判決には形式的な法的効力があり、それがたとえ誤っていても、もはや取り消すことも、(少なくとも原理的には)破棄することもできない。しかし、法的に効力のある判決であっても、どの範囲であれば例外的に破棄できるのかという問題に法律家は時おり取り組んでいる。この問題を若干の事例を基にして考察しようと思う。それは1933年の帝国議会議事堂放火訴訟である。
 というのも、あれから75年たった2007年の末、20世紀の法政史上の事件のなかでも最も耳目を惹きつけた一つの事件が、さほど耳目を惹きつけないまま終わりを迎えたからである。2007年12月6日の決定をもって、連邦検事局は帝国議会議事堂放火訴訟においてマリヌス・ヴァン・デル・ルッベに言い渡された判決が破棄されたことを確認した2)。1934年の初頭に死刑が執行されたオランダ人の権利回復の問題をめぐって連邦共和国では多くの訴訟が提起されてきた3)。さらに、ヴァン・デル・ルッベは単独正犯だったのか、それとも複数人による共同正犯だったのか、もしかすると帝国議会議事堂に火を放ったのは国家社会主義者自身だったのではないか。今日に至るまで歴史家を対立的な論争へと巻き込んでいる問題が歴史家の関心を引いてきた4)。以下の考察は、連邦検事局の破棄決定を受けて、様々な権利回復訴訟の歴史をたどり、それによってドイツの裁判所によるナチの過去の克服に光を当てることを目的としている。

 第二章 前史
 1933年2月27日、オランダ人のマリヌス・ヴァン・デル・ルッベが炎上する帝国議会議事堂の建物の中で放火の嫌疑で逮捕された。彼に対して起こされた裁判において、彼は罪状を認め、1933年12月23日、ライプツィヒにある帝国裁判所(RG)により、故意による放火罪と行為単一性の関係にある内乱罪を理由に死刑の言い渡しを受けた(行為時に両罪に法定された最高刑はいずれも終身刑であった――訳者による注)5)。1933年3月29日(つまり行為の4週間後)の単行法6)は、1933年2月28日以前に行われた行為に対して加重された刑罰規定(死刑――訳者による注)を適用できると定めたが、それを理由に彼を死刑に処することが認められた。1934年1月10日、ヴァン・デル・ルッベの死刑はベルリンで執行された7)。共同被告人のブルガリアの共産主義者およびドイツ共産党帝国議会議員団長のエルンスト・トルクラーには無罪が言い渡された。その判決は様々な評価にさらされ、国家社会主義者以外に満足した者はいなかった8)。
 帝国議会議事堂の放火は、政治史上の重大事件でもあるが、それはヒトラーにとって基本権を部分的に制限し9)、多くの野党議員を逮捕し、その上で授権法10)――いわゆる権力掌握の礎石――を制定するための契機であった。

 第三章 連邦共和国初期における再審
 1ラント法制の法状況11)
 すでに連合国管理委員会は、1945年10月20日、「ヒトラー体制において、政治的、人種的または宗教的な理由により」言い渡された有罪判決を破棄するよう要請した12)。その後、アメリカ占領地区の州政府首相常任委員会によってその最初の補償法が決議され13)、所属する州によって批准された14)。1年後――内容的に同じ――法律がイギリス占領地区においても決議された15)。それによって、「宣告刑はもっぱら第2条に挙げられた規定の一つに違反していることを理由に」自動的に破棄された16)。ここでは、管理委員会法第1号と第10号によって廃止された一連のナチ法規が問題視されていた17)。
 フランス占領地区には、ラインラント(1946年までプロイセンの一部で、ラインプロヴィンツと呼ばれた領域――訳者による注)では、破棄請求ができることだけを定めた法律18)があった。ザールラントの法状況も同じであった。ソビエト占領地区では、「ソビエト軍政府長官命令」第228号(1946年)が、抵抗運動家に対するナチの有罪判決は無効であるという指令を出した19)。ソビエト占領地区では、1946年から1949年まで1485人の有罪判決が破棄され、その後はわずかな個別事案に関する判決が破棄されただけであった20)。
 占領地区の諸規定は、基本法125条2項に基づいて連邦法の一部として効力を有することが認められた。
 最終的に、1951年、刑法領域における国家社会主義の不法を補償するための法律(Gesetz zur Wiedergutmachung nationalozialistischen Unrechts auf dem Gebiete des Strafrechts = WGG)がベルリンで公布された。それは、「ヴァン・デル・ルッベ事件」に適用できる法律であった21)。同法1条1項によれば、1933年から1945年までの時期に刑事司法の領域において言い渡された裁判所の判決は、
 「……判決が、国家社会主義の強化に奉仕し、または国家社会主義思想を徹底することを目的とした規定に基づいていることが明らかな場合、または判決が政治的、人種的または宗教的な理由に基づいて言い渡された場合」、
破棄できるとされていた。
 破棄は、自動的にではなく、請求に基づいてなされるだけであった。その法律は、「残虐または重すぎる刑罰に関しては」、「適正な程度」に引き下げることができるとする規定をも設けていた(1条2項および3項)。それによって処罰を定めた規定を全面的に廃止せずに、判決を変更できるようになった。
 法状況が統一的でなかったのは、先に挙げた点だけではなかった。請求は必要条件なのか、それとも職権による措置は可能なのかという点についても、法律によって異なっていた。結局のところ、内容的な条件は不均等であった。破棄によって利益を受けるのは、抵抗運動家であったり、政治的被迫害者であったり、また特殊的な国家社会主義的規範を適用された人々であったり、様々であった。

 2ヴァン・デル・ルッベ事件の手続
(1)1955年の最初の試み
 1955年、元死刑囚の兄弟のイャン・ヴァン・デル・ルッベがベルリン州裁判所に対して、刑法領域におけるナチの不法を補償するための(ベルリン)法律第1条に基づいて帝国裁判所判決の破棄を請求した22)。もっとも、請求は法律の公布後1年以内に行えるだけであった(§4 Abs. 2 WGG)。その限りでは、請求にはすでに期限が設けられていた。ただし、彼の請求は認められた。というのも、その請求はナチの迫害の犠牲者の補償のための連邦法(Bundesgesetz zur Euntschädigung der Opfer nationalsozialistischer Verfolgung)23)に基づいて権利の回復を求めたものであり、それによって補償請求をも実現する目的を伴っていたからであった。後の連邦補償法24)は、その請求期限を1958年10月1日まで延長したので、その限りではヴァン・デル・ルッベの側からの請求はこの期限の終了前に行われていたことになる。しかし、州裁判所の見解によれば、請求人は判決の破棄請求を補償目的のために主張していることを証明しなかったので25)、破棄請求も認められないと指摘された。何故ならば、刑事判決の破棄が認められるのは、補償目的に基づいている場合だけだからである。判決の破棄が認められるためには、判決を破棄または変更しなければ補償が受けられない旨の補償庁の「明示的な書面による所見」を提出しなければならなかった26)。しかしながら、請求人は補償庁の対応する所見を提出しなかった。この消極的な決定に対して抗告したが、1958年8月27日、ベルリン高等裁判所によって棄却された27)。

(2)1960年代半ばの部分的成果
 1965年に破棄請求の除斥期間が廃止された後、新たなスタートを切ることが可能になった28)。それに基づいて死刑囚の兄弟は、ベルリン州裁判所に新たに請求した。裁判所はもはや判断を回避することは許されなかった。請求は、1933年判決の完全破棄を請求している検事長の態度表明によって支援された29)。彼は、帝国裁判所を「政治的な目的司法」と評価し、裁判所が内乱罪を理由に有罪にした際に保護法益と見做したのはワイマール憲法ではなく、「アドルフ・ヒトラーおよび我が党が仮借なしに実践した権力要求」30)であるという考えを明らかにした。さらに帝国裁判所は、刑罰法規の遡及禁止原則に違反していた31)。放火罪を理由に有罪にした際においても重視されていたのは政治的な判断であった。有罪判決は、ヴァン・デル・ルッベの政治的動機を理由としたものであった。このように主張した。
 州裁判所は、内乱罪の点に関してはこの説明を支持した32)。当時のナチの統治権の担い手に対する暴力を伴う暴動の惹起は、今日的視点(1966年)から見れば、合法的な抵抗運動であったといえるので、暴動を理由とした有罪判決は政治的に動機づけられていた。「それゆえに目論まれた重罰は、成立し続けることは許されない」33)。このように述べた。しかし、州裁判所は他方において、放火罪を理由とした当時の有罪判決に文句を付けることはできないと考えた。行為者の政治的動機だけで破棄を正当化することはできない34)。立法者の目的は、抵抗運動を事後的に正当化することではない。そのことは、文言(「政治的な理由から行われた」)からも、また補償法の目的(……刑法によって政治的に規制された者を保護するのであって、確信犯ではない)からも明らかである。このように述べた35)。
 結果としては、1967年4月20日の決定によって死刑は破棄された。正確に言うと、市民的公民権の剥奪は破棄され、死刑は懲役8年に引き下げられた。
 請求人も、検事長も、ヴァン・デル・ルッベの完全な権利回復を獲得するために上訴手段に訴えたが36)、結果的には何の成果も得られなかった。ベルリン高等裁判所は、1968年5月の決定によって抗告を棄却し37)、そのうえで旧帝国裁判所の判決が完全に正当であると評価していること、死刑の判断を変更するにあたって政治的な判断、つまり国家社会主義者の影響を受けたことは重視されないと理解していることを理由において示した。高等裁判所は、ヒトラーが当面する1933年の選挙に勝利することは確実に予測しえたことを前提にし、その限りで言えば、帝国裁判所の判決は説明可能であり、当時の共産主義者の蜂起が危険であったという理解もまた正当であった。それ以外の点では――高等裁判所が述べているように――帝国裁判所が政治的考慮によって指揮されていたと云々して、それを帝国裁判所の責めに帰そうとしたというのは筋違いである。高等裁判所は、このように述べた。裁判所は、帝国裁判所が政治的な理由から判断したのではないことを裏付ける国家社会主義者の判決に対する反応を引用した。
 「ヒトラーが合法的に帝国宰相に任命されたという事実は、論争の余地がないほど確定している。同様に国家社会主義者が1930年から1932年までの選挙において獲得した桁外れの得票数は、ドイツ民族の大多数が当時ヒトラーを信任したことを証明している。……もしかすると共産主義者の蜂起が起きるかもしれなかった。それはヒトラーを追放することによって合憲的秩序を保護ないし再建する目的に資するものではなかったのではないか。むしろ憲法を破壊するもとで自らの権力掌握を目論んだだけであったのではないか。……それ以外の点で、帝国裁判所が判断を示すにあたって政治的な考慮によって指揮されていたと云々して、それを帝国裁判所の責めに帰そうとしたの筋違いである。……当時の権力者は、あからさまに判決に怒りの表現を与えたのである」38)。
 逆にいうと、他の判断をすることは、帝国裁判所にはあり得なかったのである。
 高等裁判所の歴史分析は、人を驚愕させる。高等裁判所は、1933年という年の歴史的評価を行ったが、その評価は非常に問題があった。なぜなら、それは最終的には帝国裁判所の裁判官による政治状況の評価を正当なものと想定しているからである。しかし、それは少なくとも歴史家にとっては物事を知らない者がする主張である。いずれにせよ、国家社会主義者の宣伝39)が無批判に議論の中に取り入れられている。帝国裁判所が非政治的な判断をしたという事実に対して権力者は不満であったというが、そのことから導き出された結論は至極単純なものである。なぜなら、帝国裁判所に対する不満は、無辜を罰したという点にはなかったからである。政治的な理由なしに判決を言い渡した場合と比べると、それよりも重い刑罰が(権力者にとって有利になるよう)――事実上の――行為者に対して言い渡されているが、その時点ですでに政治的であったと言える。帝国裁判所が捜査において他の共犯者の捜索を意識的に行わなかったのであるから、そのように主張する根拠は十分に存在するであろう。ヴァン・デル・ルッベは操り人形でしかなかったのか、ナチス自身もそこにいたのかという点については、今日まで証明されていないが40)、帝国裁判所はそのことを考慮に入れなければならなかったのである。それにもかかわらず、それはなされていない。
 ところで、「政治的な理由からの」判断という概念は正体不明であり、過去数十年のあいだ非常に多様に評価されてきた41)。1946年ヘッセン法は、これについて、すでにその文言によって態度を変えたが(「国家社会主義と軍国主義に対する抵抗を指導した政治的行為は処罰されない」)、ベルリンの法律(1951年)は、判決それ自体が政治的な理由から言い渡されていなければならないことを要件として求めたが、そこでは高等裁判所の確定した判決が言うように行為者の主観的動機が完全に無視されている。とはいうものの、今日では先に言及した1967年以降のベルリン高等裁判所の判決――それによると同裁判所は、帝国裁判所の側に政治的な理由があったことを確実に否定しうると確信している――は見当違いも甚だしい。死刑の遡及適用もまた、この関連において見なければならない。ただし、そのような刑法適用が妥当する法に違反していたと一義的に言えないことだけは確実に言える。なぜなら、そこでは刑の加重が問題になっているが、可罰性それ自体は行為時において確定されていたからである。それでも、この範囲にまで刑罰を加重し、それを遡及適用することは、法治国家の基準に一致するはずはない(帝国議会議事堂放火事件の時点において妥当していたワイマール憲法116条の罪刑法定主義は、行為時に行為が可罰的である限り、事後に加重された刑罰をその行為に科せると規定していると解釈できたため、ヴァン・デル・ルッベに対して行為後に加重された死刑を遡及適用しても憲法違反にはあたらない可能性がある――訳者による注)。
 問題の多い第2の論点は、抵抗運動を今日の視点から正当化するのか、それとも指弾するのかという評価の点に関わっている。ベルリン高等裁判所は(同様にその判決において次のように)考えている。
 「……もしかすると共産主義者の蜂起が起きるかもしれなかった。それはヒトラーを追放することによって合憲的秩序を保護ないし再建する目的に資するものではなかったのではないか。むしろ憲法を破壊するもとで自らの権力掌握を目論んだだけであったのではないか」。
 抵抗運動の意図は、必ずしもそうとは言えないのではないか。このような視点から見なければ、1944年7月20日の暗殺計画もまた正当化されなくなり、処罰されてしまうであろう。それによって、判決の破棄は否定されてしまうのだろうか。
 ベルリン高等裁判所は、その当時の有罪判決を正当化したのは革命の意図があったということを前提にした。しかし、それはヒトラーの支配の合憲性を前提にしているがゆえに、すでに疑問であると見られていた。他の裁判所は(連邦憲法裁判所もまた)抵抗運動がその当時、支配に対する抵抗として相当であったのか、それとも――逆に――非難に値する心情に帰せられる行為であったのかについて問題にした42)。連邦通常裁判所は、連邦補償法に関する判決のなかで、次の点に基づいて抵抗運動を判断した。
 「……その動機、目標設定および成功の見込みによれば、既存の不法状態を除去するための真摯で有意義な試みであったと評価することができる……」43)。
 これが正当な判断基準であるかどうかは、今日疑わしいかもしれない44)。少なくともこの判決は、ベルリン高等裁判所がその当時知っていなければならず、もし知っていたならば、帝国裁判所の判決の根拠をより深く調べる機会になったに違いない。
 後者のベルリン高等裁判所は、個別事例を引き合いに出して歴史分析し、それに結び付けて倫理的に評価することを予定している。まさに逮捕しようとした親衛隊員を射殺した場合、それは抵抗運動なのか、それとも非難されるべき行為なのか。そのような行為が1933年に行われたことが重要なのか、それとも開戦後に行われたことが重要なのか。この問いは、すでに千年来、哲学者、神学者および法律家によって議論されてきた抵抗権の原則問題へと行き着く。その限りで言えば、専制政治に関するアリストテレスの教えが基本になる。それによれば、専制君主が自己の利益しか追求しないとき、それに対する不服従が認められる45)。強奪者と合法的に権力の座に着いた専制君主とを区別し46)、前者に暴君謀殺論47)を発展させたトマス・フォン・アクィナスを経由して、その後は(集中的に抵抗権について考察された)啓蒙期までに暴君放伐論に対応する思想が生み出された。例えば、モンテスキュー48)がそうであり、イギリスでは49)、例えばジョン・ミルトン50)、後にアメリカではトーマス・ジェファーソンがそうである。法的な合法性と道徳的な正当性が分離されている点が、全ての萌芽に共通している。専制君主による権力掌握の合法性が重要な役割を果たすのかどうかが51)時おり問題にされているが、それは全面的に否定される。この点に従う限り、専制君主それ自体を非合法なものと見做す以上、支配のための理論的基礎は、その全体にわたって疑問視される。専制君主によって創り出された法規範は、どのようなものであっても疑念を呼び起こす。それが表面上中立的な構成要件に関連している場合でも同じである52)。道路交通規則に反して行われる抵抗は、確かに滑稽で情緒的であるが、それでも道路交通を管理する国家の官吏に対する抵抗は、道路交通であっても公共の秩序の一部への抵抗であるがゆえに政治問題化される。ヴァン・デル・ルッベの放火行為の場合、この意味における抵抗運動は少なくとも念頭に置かれていなかった。ベルリン高等裁判所は、ここで示唆された疑問のいずれにも言及しなかった。

(3)3回目の請求
 新たな試みが、死刑囚の兄弟によって着手された。今回は、フランクフルト・アム・マインのロベルト・ケンプナー検事53)が代理人を務め、裁判の再審請求が行われた。彼はまず、刑事訴訟法13a条に基づいて再審を管轄する裁判所を特定するために、連邦通常裁判所に訴訟を起こした。連邦通常裁判所は、これを棄却した。なぜならば、補償法2条2項により、ベルリン州裁判所に管轄権があることが根拠づけられていたからである54)。
 再審請求人は、これに基づいてベルリン州裁判所に向かった。そして、現に1980年12月15日の決定において――検事局の否定的な態度表明に反して55)――マリヌス・ヴァン・デル・ルッベは完全に無罪であると言い渡した56)。裁判所は実際にも、帝国裁判所の判決は国家社会主義の思想に依拠していたと説明した。死刑が執行された有罪確定者が実際に実行した行為は、可罰的な放火行為であったが、帝国裁判所は、その行為に関して他の共犯者への捜査に関してさえも一面的な態度をとったと認定された57)。帝国裁判所は、証拠調べにあたって事実的かつ法学的な議論の前提を置き去りにした。帝国裁判所の理由づけは、政治的な性質のみで一面的であった。最終的に判決は政治的な部分と非政治的な部分とに分割されず、それゆえ放火を理由とした有罪判決もまた破棄されなければならない。さらに、行為者の政治的動機もまた補償法の破棄決定にあたって顧慮しなければならない。このように判断したのである58)。州裁判所はこれらを理由にヴァン・デル・ルッベを死後に無罪とした59)。ドイツ連邦中の全ての大新聞において、この無罪判決が議論された。外国でも同じであった(例えば、フランクフルター・アルゲマイネ、フランクフルター・ルントシャウ、南ドイツ新聞、シュトゥットガルト新聞、ディ・ヴェルト、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト)60)。これらはいずれも判決を歓迎した。
 この無罪判決に対して検事局は控訴し、1981年4月21日、それはベルリン高等裁判所によって受理された61)。同裁判所は、刑事訴訟法359条と補償法に基づくならば、再審手続に許されない混乱があると指摘した。請求は刑事訴訟法に基づいて再審に向けられているだけであり、その手続の管轄はベルリン州裁判所にはないというのである。1974年の連邦通常裁判所の判決の内容は、補償法に基づく管轄権は再審手続の管轄権をも根拠づけているというものであったが、その限りで言えば、高等裁判所はその判決に正面から違反していた。高等裁判所が言うには、請求は認められず、新たな破棄請求であっても考慮に値しない。というのも、この手続は法的効力を持っていないからだというのである62)。結果的に破棄されたのは、無罪判決の方であった。
 その結果、法律家でない者にはほとんど理解しえないものがもたらされた。連邦通常裁判所は、高等裁判所決定を不服とする抗告は認められないとして差戻した63)。なぜなら、高等裁判所に管轄権があるからである。高等裁判所の裁判官のうち2名の裁判官は法の理解が誤っていたため管轄権がないと説明した。そのため忌避されたが、その説明は高等裁判所によって根拠がないとして棄却された64)。それを踏まえてヴァン・デル・ルッベの件は改めて連邦通常裁判所に抗告された。連邦通常裁判所第2刑事部は、刑事訴訟法13a条に基づく管轄裁判所を特定するのを拒否した。何故ならば、再審対象は帝国裁判所の判決であり、その管轄権はすでに高等裁判所にあったからである65)。帝国裁判所はライプツィヒに開設され、もはや(当時においては)ドイツ民主共和国の一部であったために、連邦通常裁判所は、法的統一性の再確立のための法律8条3項88号を介して、帝国裁判所を代表し、(裁判所構成法120条に基づいて)連邦通常裁判所の管轄を高等裁判所に移管したというのである。
 それゆえ、請求人のところでは、あらためてベルリン高等裁判所に請求する以外にななかった。しかし、再審は即座に拒否された66)。高等裁判所は、連邦通常裁判所は一般的に言って帝国裁判所を代表していないと主張した。閉鎖された帝国裁判所のための補充的な管轄権は、再審手続の場合は根拠がないため、帝国裁判所の判決を再審することはできなかった。このような法の欠缺は、有罪確定者が外国人であったために(§17 Abs. S. 2 ZEG)、裁判所によって補完することはできなかった。連邦通常裁判所の決定は、高等裁判所に対して拘束力を持たなかった。それに対する抗告は連邦通常裁判所第3刑事部によって判断が示されていた。このように主張したのである67)。第3刑事部もまた高等裁判所に管轄権があると見なしたが、ヴァン・デル・ルッベには再審を正当化するだけの理由がないと考えていた。従って、再審手続は共和国では行えないというのが最終的に法的効力のある判断であった。
 我々が見ているのは、40年を超えて特徴づけられた一つの態度である。すなわち、ナチ時代の司法の判断に評価を加えることなく「そのまま」にしておくという態度である。「ナチの同僚」と親しくなりたいという動機は1960年代には決定的に大きかったが、この時点(1980年代初頭)においては、誰もそうしたいと思う者などいなかった。それだけに、このように「そのまま」にしておくという躊躇した態度は説明不可能である。その躊躇のなかに実証主義の見解が表れているのか、それともむしろ集団による排除が表れているのかは明らかではないが、おそらく両者であろう。
 今回、1967年以降のベルリン決定を裁判沙汰にする最後の試みもまた、当時の決定は法的に有効であるがゆえに、ベルリン州裁判所によって認められないとされた68)。その結果、その後20年間、この問題はそのままの状態に置かれた。

1)Z.B. Der Spiegel vom 15. 5. 1978, Heft Nr. 20 (1978), S. 23.
2)2007年12月19日付けの検事総長通達。Az 2 AR 187/07.
3)それについては、第三章2を参照されたい。
4)この論争に関しては以下のものを参照されたい。Giebeler, Die Kontroverse um Reichstagsbrand, München 2010 mit einer Chronologie der vertreteten Auffassungen; Kellerhoff, Der Reichstagsbrand. Die Karriere eines Kriminafalles, Berlin 2008; Deiseroth (Hrsg.), Der Reichstagsbrand und der Prozeß vor dem Reichsgericht, Berin 2006; H. Schneider, Neues vom Reichstagsbrand? Dokumentation, Berin 2004; Bahar/Kugel, Der Reichstagsbrand. Wie Geschichte gemacht wird, Berin 2001; Köhler, FAZ v. 22. 2. 2001; Mommsen, ZfG 49 (2001), 352-357; Backes /Janßen/ Köhler/ Mommsen, Der Reichstagsbrand. Aufklärung einer historischen Legende, München 1986; Bahar/ Kugel, GWU 1995, 823-832; Tobias, Der Reichstagsbrand. Legende und Wirkichkeit, Rastatt 1962.
5)この判決は、今でも1つの章の1つの節として維持されている。それは、(u.a.) in: Deiseroth, Der Reichstagsbrand, S. 227ff.に挙げられている。その判決の評価に関しては、所収のミュラーおよびダイゼロ―トの論稿を参照されたい。
6)Gesetz über Verghängung und Vollzug der Todesstrafe (RGRBl Ⅰ, S. 151).第1条に関しては、以下のものを参照されたい。Epping, Der Staat 34 (1995), 243-267; Werle, Justizstrafrecht und polizeiliche Verbrechensbekämpfung im Dritten Reich, Berlin 1989, 73 ff.; Seebode, Streitfragen des strafrechtlichen Rückwirkungsverbots im Zeitenwandel, in: JJZG 3 (2002), S. 203ff.
7)執行記録は,ダイゼロート(前注4)・325頁に印刷されている。
8)ナチ党広報部は次のように記している。「帝国議会議事堂放火訴訟の判決によれば、トルクラーと3人のブルガリア共産党員に対して形式的・法学的理由により無罪が言い渡されたが、その判決は民族の法感情に従えば誤判である。我々は、帝国裁判所の形式的・法学的理由を我が物とすることはできない。そのような理由はドイツの今日の国政上の法意識に決して対応していないからである。その判決が、新生ドイツにおいて再び妥当すべき真の法、民族感情に根を張っている真の法に従って言い渡されたならば、それは別の言葉で述べられたであろう」(DR 1934, S. 19)。
9)Verordnung zum Schutze von Vok und Staat v. 28. 2. 1933.
10)Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich v. 24. 3. 1933(RGBl Ⅰ1933, S. 141).
11)それを概観するものとしては、次のものを参照されたい。Fikentcher/ Koch, NJW 1983, 12 ff. und Beckmann, JZ 1997, 922 ff. それと並んで詳しいものに、次のものがある。Vogl, Stückwerk und Verdrängung. Wiedergutmachung nationalsozialistischen Strafjustizunrechts in Deutschland, Berlin 1997.
12)Proklamation Nr. 3, Art. Ⅱ Nr. 5, Abdruck in: Henken, Sammlung der vom Alllierten Kontrollrat erlassenen Proklamationen, Gesetze, Verordnungen, 3. Aufl. 1946.
13)Gesetz zur Wiedergutmnachung nationasozialistischen Unrechts in der Strafrechtspflege vom 17. 4. 1946 (Sammlung des Länderrats, S. 67, abgedruckt bei Vogl, S. 341ff.).
14)Bayerisches GVBl. 1946, 180; Württ RegBl. 1946, 205; Hessen GVBl. 1946, 136; Bremen GBl. 1947, 84.
15)Verordnung über die Gewährung von Straffreiheit vo, 3. 6. 1947 (VBl. für die britische Zone, S. 68, abgedruckt bei Vogl, S. 345ff.).
16)§9 Abs. 1.
17)問題になった法律と命令は,合計で44あった(aufgezählt bei Beckmann, JZ 1997, 92f. mit einer kritischen Würdigung)。
18)Gesetz v. 23. 2. 1948 (GVBl., 117, abgedruckt bei Vogl (Fn. 9), S. 351ff.).
19)Abgedruckt bei Vogl (Fn. 11), S. 355.その適用領域に関しては、151頁を参照されたい。
20)Vogl (Fn. 11), S. 172 f.そこでは、ほとんどの該当者は請求を行っていた。
21)Gesetz vom 5. 1. 1951 (VBl. Berlin 1951 1 Nr. 2, S. 31). その法令は、(注9)フォークル・359頁に掲載されている。
22)Vorige Fn.
23)Auf Grundlage des Bundesgesetzes zur Entschädigung für Opfer der Nationalsozialistischen Verfolgung (Bundesentschädigungsgesetz) vom 18. 9. 1953 (BGBl. Ⅰ, 1387).
24)Änderungsgesetz des Bundesentschädigungsgesetzes, § 44 Abs. 1 (RGBl. Ⅰ, S. 559).ベルリンでは1958年10月1日に延期した。VBl. Berlin 1956, S. 764.
25)Beschluss des LG v. 3. 5. 1958 – 2 P Aufh. 473. 55.
26)当時のベルリン高等裁判所の判決はそのように述べている(Beschlüsse vom 30. 4. 1956 – 1 Ws 182. 56, vom 11. 12. 1957 – 1 Ws 674. 57 und in der Sache van der Lubbe – 1 Ws 397. 58)。
27)1 WG AR 68. 55 – 1 Ws 397. 58.
28)Gesetz vom 14. 9. 1965 (GVBl 1965, S. 1258 = BGBl Ⅰ, 1315).
29)Generalstaatsanwalt v. 8. 12. 1966 – 1WG AR 3. 66.
30)Borige Fn., S. 9.
31)Vorige Fn., S. 11 f.
32)Beschluss des Landgerichts Berlin vom 20. 4. 1967 – 502/2/ P Aufh. 9/66, S. 18.
33)Beschluss des Gerichts (vorige Fn.), S. 19.
34)Beschluss (vorige Fn.), S. 25.
35)Vorige Fn., S. 30.
36)検事長はさらに帝国裁判所が判決に際して依拠している政治的な目的思考の多くの点を指摘した(Begründung v. 31. 7. 1967 – 1 WG AR 3. 66)。
37)Beschluss des KG vom 17. 5. 1968 (vorige Fn., S. 5 f.).
38)Kammergericht Berlin vom 17. 5. 1968 (vorige Fn., S. 5 f.).
39)Vgl. oben Fn. 8.
40)この問題に関しては、(前注4)の引用文献を参照されたい。
41)その概念は、被害者の補償問題において固有の意味を持っている(Pawlita, “Wiedergutmachung” als Rechtsfrage?, Frankfurt 1993, S. 339ff.).次のものも参照されたい。Päuser, Die Rehabititierung von Deserteuren der Deutschen Wehrmacht unter historischen, juristischen und politischen Geschichtspunkt, München 2005, S. 154 ff.
42)LG Hamburg v. 30. 12. 1974, abgedruckt in : Demokratie und Recht 1983; kritische dazu Officzors, ebenda, S. 174 ff.
43)BGH NJW 1962, 195.
44)Düx, Demokratie und Recht 1980, 262 f.
45)Stütler, Das Widerstandsrecht und seine Rechtfertigungsversuche, in: Kaufmann, Widerstandsrecht, Darmstdat 1972, S. 24 ff.もっともアリストテレスは、暴君謀殺を明示的には正当化しなかった(Kaufmann, Vom Ungehorsam gegen die Obrigkeit, Heidelberg 1991, S. 40)。Vgl. auch Hüllen, Historisches Wörterbuch der Philosophie Band 10, Darmstadt 1998, Tyrannis, Sp. 1611 ff.
46)Dilcher, HRG-Widerstandsrecht, Band 5, Berlin 1998, Sp. 1355.
47)それについては、次のものを参照されたい。Winters, HRG-Monarchomachen, Band 3, 1984, Sp. 630 f.; Dilcher (vorige Fn.), Sp. 1359 f.
48)Persische Briefe (dt. von Montfort), Wiesbaden 1947, S. 193 f.「ところが、ある君主が臣民に幸福な人生を送らせることなど全く考えず、彼らを抑圧し、抹殺しようとするなら、服従の根拠は失効している。彼らを拘束するもの、彼らを君主につなぎとめるものは何もない。彼らは、その自然の自由へと戻っていく」。s.a. Rousseau, Contrat social Ⅲ CX (Weinkauff, Uber das Widerstandsrecht, Darmstadt 1972, S. 401 f.).
49)von Friedeburg, Widerstandsrecht, Historisches Wörterbuch der Philosophie Band 12, Darmstadt 2004, S. 715 ff.
50)Salomon-Delatour, Moderne Staatslehren, Neuwied 1965, S. 256 f.
51)そのようにトマス・アクィナスは説く(Hüllen, Historisches Wörterbuch der Philosophie, Sp. 1611)。
52)もっとも、そのことをもって、この体制において言い渡されたあらゆる判決が不法であるという結論にはまだ至らない。
53)ケンプナーは、ニュルンベルク裁判における共同訴追官として有名になった。ケンプナーの人物については、Niederstucke: Robert M.W. Kempner-Gedeneken in Berlin und Osnabrück aus Anlass seines 100. Geburtstages, Osnabrück 2000; Gegen Barbarei. Essays Robert M.W. Kempner zu Ehren (Hrsg.), Eisfeld/ Muller. Frankfurt 1989; Kempner in Zusammenarbeit mit Friedrich: Ankläger einer Epoche: Lebenserinnerungen, Frankfurt/M. 1986.
54)2. Strafsenat, Beschluss vom 25. 4. 1974 – 2 ARs 105/74.
55)Vom 12. 12. 79 – 2P Aufl. 9/66.
56)510-17/80.
57)Begründung, S. 12.
58)Begründung, S. 14.
59)Beschluss vom 15. 12. 1980 – 510 – 17/80.
60)Alle vom 30. 12. 1980.
61)2 AR 232/79 – 4 Ws 53/81 (NStZ 1981, 273).
62)この判決は、マスコミ関係者に対して、ドイツの過去の司法を通じた克服を批判的に考察するきっかけを与えた(z.B. Frankfurter Rundschau 〔23. 4. und 24. 4. 1981: マルティン・ヒルシュ憲法裁判所判事のインタヴュー〕, Frankfurter Neue Presse 〔23. 4.〕.ベルリン高等裁判所はそれを支持した。FAZ v. 9. 5. 1981)。
63)Beschluss vom 21. 4. 1981 – 2 ARs 117/81 (NStZ 1981, 489).
64)Beschluss vom 3. 5. 1982 – 4/2 ARP 132/82-3.
65)BGH v. 22. 12. 1981, MDR 1982, 424.
66)Beschluss vom 20. 12. 1982 – 2 ARP 18.
67)Beschluss vom 2. 5. 1983, BGHSt 31, 365 = MDR 1983, 859.
68)Beschluss des LG Berlin v. 26. 1. 1984.

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