アンドレアス・ロート あの時、法であったものが、今になって不法であるなどありえない(2・完)

アンドレアス・ロート あの時、法であったものが、今になって不法であるなどありえない(2・完)

アンドレアス・ロート
 あの時、法であったものが、今になって不法であるなどありえない(2・完)
――帝国議会議事堂放火訴訟においてマリヌス・ヴァン・デル・ルッベに言い渡された有罪判決の破棄を勝ち取るための闘い――

 第四章 他の破棄手続の事例
 比較検討するために、少なくとも2、3の破棄手続について手短に言及したい。ブレーメン事件(1987年判決)69)においては、同じように放火を理由とした有罪判決が問題になった(特別裁判所は1942年に16才の少年〔氏名はヴァルターヤン・ブロベール〕に有罪を言い渡した)70)。ブレーメン州裁判所は、当時の有罪判決が国家社会主義の見解だけに従ったのではないにもかかわらず、それを全面的に破棄した。何故ならば、有罪判決は刑法の放火罪規定および民族敵対者令(VSVO)3条に基づいていたからである。さらには、有罪判決の最後のくだりには、「典型的な人種主義および国家社会主義の思想」が含まれていた。ポーランド人の少年が問題になっていたので、ブレーメンの裁判官は少年法が適用されなかったことにそれを見出した。
 さらに、内乱罪を理由とした1943年執行の死刑判決の破棄が認められた71)。内乱罪の規定に基づいた有罪判決は、いかなる場合にも破棄されなければならない。何故ならば、その刑罰は本質的に1933年2月28日のドイツ民族への反逆および内乱的暴動を禁じた命令によって設定され、その規定は管理委員会によって廃止されたからである、というのがその理由であった。原審は、判決理由が不法な法律に基づいていたということでは十分ではない(それは判決の主文でもあったと思われる)と考えたが、ベルリン高等裁判所はここではより大らかであった。「内乱罪構成要件とその適用の制限のない可能性こそが、国家社会主義の権力者がその支配を確立する際の特別に適した手段であったことは明らかである」。
 1991年、シュレースヴィヒ上級州裁判所は、その後の手続において、横領を理由にした有罪判決が民族敵対者令4条に基づいていたことを理由にそれを破棄した。同条には固有の独自の構成要件が定められており、それは単なる加重類型だけを規定したものではなかった。ただし、窃盗および文書偽造に科された刑についてはこの限りではなかった。その刑罰は正当に科されたものだった。このように述べた。
 次の2つの比較可能な事案において、ある問題が裁判所に提起される。それは、1933年以前において、また連邦共和国において、現行法上可罰的な行為を理由に言い渡された有罪判決をどの程度の範囲において破棄できるのか、あるいは破棄すべきなのかという問題である。2つの事案において問題になったのは、第二次世界大戦中の犯罪構成要件である。窃盗罪と民族敵対者令違反の罪である。後者は疑うまでもなくナチの不法な法規であった72)。それにもかかわらず、そのナチの法規は窃盗罪のような今日の刑法においても処罰される数多くの行為に刑罰を科していたのである。
 一方の事案では、ある男性の行為者が爆弾で破壊された(それゆえに住人のいない)住居に2度にわたって侵入し、そこで家財道具とその他の物を「窃取」した。シュレースヴィヒ上級州裁判所は、有罪判決を破棄すべきと判断する根拠として、民族敵対者令が適用されたことを挙げた。というのも、その判決は一義的に国家社会主義の思想によって鋳造された固有の構成要件を作り出した法律に依拠していたからである73)。それゆえ、問題とされる行為が、今日においても、なお可罰的であることは破棄を妨げるものではない。
 他方の手続においては、郵便局で仕分けを担当していた私書箱係の女性従業員が、たびたび小型小包をこっそりと抜き取り、その内容物を横領したとして起訴された。この女性もまた――先の男性と同じように――1941年に特別裁判所によって民族敵対者令違反の罪を理由に死刑にされ、執行された。しかし、この女性の事例では、ドュッセルドルフ上級州裁判所は、郵便の内容物の抜き取りは、その後の今日においても、どの裁判所によっても処罰されてきた行為であるとの考えを示し、それゆえ「……この有罪判決の前提には、国家社会主義の思想だけに基づいて処罰される行為があるわけではない」。民族敵対者令を適用したことは、有罪判決の言い渡しを妨げるものではない。さらに、この女性はその行為を領得意思に基づいて行ったのであるから、それは有罪判決を破棄させることにはならない74)。
 これら2つの判決は、1990年代の初頭に言い渡され、いわゆる不法判決を確認するうえでの板挟み状態を表した。問題は――一方では不法体制によって峻厳な処罰を受けながら、他方ではそれをそれが非難されるべき行為であった――ヴァン・デル・ルッベの事例における問題と同じである。その限りで言えば、1966年にベルリン州裁判所が部分的に破棄した判決は理解することができる。

 第五章 2007年のヴァン・デル・ルッベ事案の判決
 連邦検察官は、長く時間のかかる手続をとることなく、マリヌス・ヴァン・デル・ルッベに対する判決が破棄されたことを伝えた75)。まるで澄みわたる空から伝えられたかのように――それはほとんど予期されていなかったことであった76)。この判決は、再審手続にも、また以前の補償法による措置にも基づいていなかった。この破棄判決は、1998年8月25日の刑事司法における国家社会主義の不法判決を破棄するための法律(NS-AufhG)に基づいていた77)。

 11998ナチ刑事不法判決破棄法
 本法は、連邦共和国の若干の州法の規定の妥当性について、不安定な状態が支配的であったために公布された(前記三章1)。1990年代にディートリヒ・ボーンへーファー(等々)に対する死刑判決を補償法に基づいて破棄するよう求めた請求が起こされたとき、1996年、ベルリン州裁判所は、1945年4月8日の判決――それによってカナリス海軍大将、オスター少将、カール・ザック大隊長およびボーンへーファー牧師に死刑が言い渡された――はすでに(自動的に)破棄されていると慌てて78)確認した79)。以前から彼の名誉が回復されていないことに度々非難が向けられてきた。その限りで言えば、法的明確性の要請は実際にあった。
 これに加えて立法者は、ドイツ連邦の新しい州では明確な法的規則がなかったため、法的基礎の統一化を獲得しようとした80)。その限りで、その法は東西ドイツの再統一の産物であった81)。
 第1条(NS-AufhG)――それは一般条項である――によって、正義の基本思想に反する判決は破棄された。立法理由によれば、原則的に破棄される判決は、国家社会主義の不法体制を貫徹または維持するために、政治的、軍事的、人種的、宗教的または世界観的な理由から言い渡された判決である82)。第2条は、一般条項の具体化に役立つ若干の規則例を列挙している。それによって破棄される判決は、法治国家に反した一定の制度によって言い渡された判決であり(第1項は民族裁判所、第2項は身分制裁判所)、または立法府の不法に基づいた判決である(第3項)83)。判決が他の規範に基づいていようとも、第1条に従って破棄できる。
 その当時、問題になっていたのは、1933年1月30日以降に言い渡された判決であり、それ以前に行われた行為に対して言い渡されたものであっても問題になっていた。その規則は、無条件降伏後に言い渡された判決もまた包摂できるように、時間的に後にずらして適用された。破棄の効力が法律によって自動的に発生するという検事局の声明は――ここで問題になっている事案においても――宣言的な意義しか持っていなかった84)。ナチ刑事不法判決破棄法第6条2項は、請求資格を持つ一定の人を列挙していた。請求資格を持つ人がもはや生存していないが、請求の利益がある場合には、検事局が職権により確定しなければならないとされていた(第6条1項3文)85)。
 2002年、男性同姓愛行為と逃走を理由とした有罪判決が破棄すべき判決のカタログに補充された86)。それらの判決は、以前においてはどの法律によっても実際には破棄できなかったものである。

 2具体的な判決
 ここで問題にされている1933年の帝国裁判所判決に関しては――連邦検察官が言うように――、問題になっているのは明らかにそのような不法判決である。2条の構成要件には該当していないので、法的基礎になるのは一般条項であった。内乱罪で有罪にするのか、それとも放火罪で有罪にするのかを区別することは、連邦検察官は問題にしていない。放火罪が今日でも可罰的であることは、同様にさほど問題にされてはいない。過去数十年においてドイツ連邦の裁判所は様々な論争問題に取り組んできたが、連邦検察官はそれに理解を示していない。むしろ、取り消し線を引いて、あるいは簡潔な理由を添えて、旧い判決を破棄したのである。
 同じことは、ナチ刑事不法判決破棄法に基づいて行われた他の訴訟にも見られた。それは、1943年12月4日に民族裁判所によって「敵国のラジオを聞いたことを理由に」死刑に処され、そして執行された主任司教のアルフォンス・ヴァッハマン博士に関する訴訟である87)。ヴァッハマン事件では、ベルリン大司教区の司教総代理が1996年8月9日に破棄請求をした。同様にシュテファン・コヴァリーク法律顧問(すでに退職)もまた11月23日に同様の請求をした。上級検察官は、1997年3月13日の覚書において、ベルリン州裁判所第17刑事部が唯一の管轄権を有していること、その時点で数多くの請求によって負担過剰になっていたことを指摘した。1年後送られてきた司教事務局宛ての手紙には、同じ内容が書かれていた。1998年11月16日付けの手紙によって、ベルリン第1州裁判所上級検察官は、1943年判決が破棄されたことを伝えた88)。この破棄理由としては、民族裁判所の判決がそれに該当するという事実だけで十分であった。法律2条は、この「裁判所」の全ての判決が破棄されると宣言したので、法律の意味における請求権者が存在しないという事実は、破棄によって得られる正当な利益があるため、とるに足りないと評価された。ヴァッハマンは、その教区において高い名声を得ており、とくに追放された人々の世話をした。それゆえ、破棄によって得られる公的な利益があった。このように伝えた。その事例は、1998年以前には法の欠缺があったが、ようやく新法が実務によって受け入れられ、それが効果的に取り除かれたことを示している。

 3再審手続との関係
 ナチ刑事不法判決破棄法と並んで、刑事訴訟法359条以下の規定に基づいて再審手続をとることが可能か否かという問題がある。この問題は、ナチ時代の有罪判決が国家社会主義思想の適用に基づいていたがゆえに不正であるだけでなく、実行犯が存在していないにもかかわらず、犯行の嫌疑がかけられたため、その当時誤って有罪判決が言い渡されたのだと主張されたとき、重要な意味を持つ。ある具体的な事件では、有罪判決を言い渡された2人の少年の遺族が彼らの無罪を勝ち取ろうとした。ナチ刑事不法判決破棄法による破棄には甘んじなかったのである89)。再審請求が法的に棄却されたことに対して、遺族は憲法に基づく抗告を行ったが、連邦憲法裁判所には受理されなかった90)。連邦憲法裁判所はケルン上級州裁判所と同様に、判決は破棄されたため、もはや存在しない判決に対して再審手続を行うことは不可能であると「考えた」91)からである。というのも、再審に必要な抗告を欠いていたからである92)。従って、その当時の判決はナチ刑事不法判決破棄法によって自動的に破棄されたため、再審の余地はもはや存在しない。
 1998年法によって刑事訴訟法359条以下の規定の適用が排除されたことは、また基本法にも違反していない。つまり、ナチ時代の不法を克服するにあたり、実用的な方法を用いる権限が立法者に与えられているからである。その中には、個々の再審手続よりも包括的破棄に優越性を与える可能性が含まれている。無罪を獲得することの利益を顧慮していないからといって、それが基本権を侵害しているとはいえない。とくに、無罪を獲得する機会が失われたからといって、人間の尊厳に反するということにはならない。1998年まで依然として効力のあったナチ判決が相当数あったことが、立法者にとっては包括的破棄をするための有利な論拠になった。
 立法者は可能な限り効果的な法的保護を行うことを基本法19条4項によって義務付けられているという主張がときおり述べられることがある93)。その中には、無罪判決を獲得する機会も含まれている。再審手続の目的は破棄の目的とは別のものである。その見解は正しい。後者の破棄の場合、不法国家に起因する特殊な不法が除去されるが、前者の再審の場合、原則的な法治国家の諸関係のもとで無罪が重要とされる。事後の新しい判断を正当化できるのは、事情が変更したことだけである。目指すところは、実行犯が存在していないことを立証することである。2つの異なる目標設定が追求されるなら、2つの手続は考え方としては両方とも必要であり、相互に排除しあうことはない。ナチ刑事不法判決破棄法の意義と目的から、それ以上の効果が発生しないのであれば、ナチの不法が除去されねばならない。それと並んで――現実の法的効力のある判決にとっても同様に――少なくとも、無罪判決が考えられる。とにかく問題は、2つの手続の関係は二者択一的なのか、それとも両方の手続を相互に取り得るのかである。破棄と再審の両方を求めることに利益があるが、その利益が無制限に保護に値するとはいえない。そうであるがゆえに、両方の手続を取り得るというのは疑わしい。司法には、考えうるところの、あらゆる利益を実現する義務はない。有罪判決が除去される限り、その不法内容ゆえに破棄されようと、再審手続において無罪にされようと、法治国家は効果的な権利保護を保障する義務を果たしたといえる。その限りで言えば、根拠づけの点はともかく、結論的には連邦憲法裁判所を支持することができる。

 第六章 今日的展開
 近年の展開は、この2つの判決(ヴァッハマンならびにヴァン・デル・ルッベ)においても明らかにされているように、新法が成立して以来、一般的な破棄に親和性を示していることを証明している。その展開は、法改正が成功した2009年になって前進した94)。その法によれば、「戦争阻害」を理由とした有罪判決もまた包括的に破棄される95)。この場合、兵士の有罪判決が問題になる。そのほとんどが帝国軍事裁判所によるものであった。というのも、彼らは敵国を援助し、それによって帝国の戦力に損害を与えたからである。ナチ刑事不法判決破棄法2条には戦時特別刑法命令(KSSVO)が挙げられているので、それゆえに「防衛力の毀損」を理由とした有罪判決は自動的に破棄される。その一方で、破棄の効力は上官の命令不服従罪の構成要件にはあてはまらなかった。同2条に軍刑法57条(MStGB §57)が含まれなかったのは、若干の会派グループが包括的な破棄に反対していたためであり、それは長いあいだ争いにはならなかった96)。2009年以降、現行法ではこの規定に基づいて有罪判決が包括的に破棄されることになった。

 第七章 結論
 連邦共和国において、立法と司法がナチ時代の有罪確定者に補償するのは非常に困難であった。1980年代においても、ナチ体制の合法性は抵抗運動の評価に対して決定的な要因になった。1990年代以降になって、ようやく新しい裁判官世代がこのテーマに活動的かつ集中的に取り組んだ。ボーンへーファー事案において言い渡された沈静化をはかる判決が積極的な急変の画期を作り出した。1998年施行の法において表現された急変であった。しかも、それは2002年に忘れられた被害者グループのための補足が求められた。
 その時々に行われてきた過去の克服、最近でも不十分にしか行われていない過去の克服の原因になっているのは、おそらく心理的・社会政策的な精神状態であろう。ナチの時代においても合法性は存在していた、それと不法判決とを区別したいと思うことから、時おり問題は生じている。そのような区別の基準は、常に難解な評価問題を提起する。すでに我々はそれを窃盗罪のような全く単純な犯罪行為を評価する際に明らかにしてきた。上述において示したように、ここでもドイツ連邦の司法は、ナチ裁判官の判決を部分的に破棄しながら、部分的に温存することを区別しようとしてきた。
 私の見解によれば、この関係において実体的正義(窃盗は常に可罰的である)と形式的正義のカテゴリーを並列させなければならない。不法国家における不法判決が(戦時特別刑法命令のような)不法規範に基づいている限り、その判決は存立しえない。正当な部分と不正な部分とに分割することもできない。実際に非難に値することを行った人々がいて、その人に言い渡された判決を結果的に破棄する――今日、我々はそのような事態と共存せざるをえない。重要なことは無辜を無罪にすることではなく、不法な判決を除去することだからである。法治国家の手段を用いて、規則に基づいた適正な手続において、犯罪を行ったことの証明がなされない場合には、たとえ社会規範に明白に違反していても我々は法治国家においてその行為者を処罰してはならないからである。例えば、禁止された尋問方法(例えば拷問)が用いられた場合、それによって得られた証拠方法を使用することはできない97)。たとえそれによって行為者による犯行であることが明らかに証明されたとしても、使用することはできない。やむを得ない場合には、行為者を無罪にするところにまで行き着く。たとえ全ての人々の確信に基づいて本来的に処罰に値するとしてもである。法治国家は、このような「欠缺」を甘んじて受け入れなければならないのである。

69)LG Bremen NJW 1988, 2903.
70)この事案に関しては、次のものを参照されたい。Schminck-Gustavus, Das Heinweh des Walterjan Wrobel. Ein Sondergerichtsverfahren 1941/42, 1986.
71)KG NJW 1997, 953.
72)この命令は、1946年に管理委員会によって廃止された(Gesetz Nr. 11 unter f)。
73)OLG Schleswig, NJW 1992, 926.
74)OLG Düsseldorf NJW 1994, 873, 875.
75)Pressmitteilung vom 10. 1. 2008 – 2/2008.
76)Schreiben des Rechtsanwalts Reinhard Hillerbrand , Berlin, vom 7. 2. 2007.
77)BGBl. Ⅰ, S. 2501. これについては次のものを参照されたい。Rudolph, NJW 1999, 102.
78)この興奮した状況に関する以前の文献としては、Mohr, NJW 1997, 914.
79)LG Berlin NJW 1996, 2742.それを支持するものとして、Mohr, NJW 1997, 914.
80)1997年の時点において法状況が不統一であったことを理由に批判するものとしては、Beckmann, JZ 1997, 930.
81)BT-Drs. 13/10013, S. 5.その法律に関しては、Vogl, Neue Justiz 1999, 240 ff.
82)BT-Drs. 13/10013, S. 7.宗教的・軍事的な理由は、法律委員会によって最初に盛り込まれた(BT-Drs. 13/10848, S. 12)。
83)この条項において列挙されているのは、特殊的な国家社会主義的不法を内容とした規定である。
84)OLG Koln v. 18. 2. 2005, JMBL 2006, 46.
85)検事局の破棄決定に対して、通常裁判所に上訴する道は開かれている(裁判所構成法施行法23条)。国家社会主義の不法判決破棄法の3条、4条関連の事案においては、検事局は州裁判所に対して指導的役割を発揮している(§4 Abs. 2 – vgl. KG v. 5. 4. 2000 und v. 20. 12. 1999, beide bei juris)。
86)Gesetz vom 23. 7. 2002 (BGBl. Ⅰ, S. 2714).それについては、次のものを参照されたい。Löhr, FuR 2002, 103.
87)Az.: 100 J729/43.
88)2 PAufh 14/96.
89)OLG Köln v. 18. 2. 2005 – Az. 2 Ws 540/04.
90)BVerfG EuGRZ 2006, 152 = NJW 2006, 2618 (nur Leitsatz).
91)OLG Köln, a. a. O., S. 4.
92)抗告の要件については、次のものを参照されたい。Wasserburg, Die Wiederaufnahme, 1983, S. 237.
93)Eschelbach, KMR, vor § 359 StPO, Rn. 17.もっとも、ここに挙げられた法律問題に対して一定の態度は表明されていない(vgl. auch Schmidt, KK, vor §359 StPO Rn. 15 a)。アーヘン州裁判所(ケルン上級州裁判所と連邦憲法裁判所の原審――前注89および90)は、2004年10月1日の決定において、刑事判決が破棄されたにもかかわらず、再審手続を開始しなかった。
94)BT-Drucks. 16/3139.
95)2009年9月24日の刑事司法における国家社会主義の不法判決の破棄のための法律の第2次改正法(BGBl. Ⅰ, S. 3150)。
96)BT-Drucks 13/7669, S. 3; Bundestags-Protokolle, 175. Sitzung v. 15. 5. 1997, S. 15819, A, B.一括破棄については、次にものを参照されたい。Holste, Recht und Politik, 2007, 168 ff.それ以外の法律の解釈に関しては、次のものを参照されたい。Päuser (Fn. 41), S. 163.
97)§136a StPO.

解説


 一 本稿は、マインツ大学法学部教授アンドレアス・ロートが執筆した「あの時、法であったものが、今になって不法であるなどありえない――帝国議会議事堂放火訴訟においてマリヌス・ヴァン・デル・ルッベに言い渡された有罪判決の破棄を勝ち取るための闘い」(Prof. Dr. Andreas Roth, “Was damals Rechtens war, kann heute doch nicht Unrecht sein” – Der Kampf um die Aufhebung der Verurteilung des Marinus van der Lubbe im Reichsragsbrandprozess, in: Journal der Juristischen Zeitgeschichte 2/2011, S. 66-74.)の日本語訳である。ロート教授が執筆した論文の日本語訳を立命館法学誌上公表することにつき教授に許諾の意思を確認するために問い合わせたところ、2018年10月4日の電子メールで返事をいただくことができた。「親愛なる本田教授。お問い合せに感謝します。貴方が私の小論を高く評価し、それが日本語訳されることは私にとって名誉なことです。この書簡をもって私は貴方に対して許諾の意思をお伝えします。さて、刑事判決はいかなる場合に破棄可能であるかという根本的な問題について、私は博士論文を出発点として考察してきました。しかし、その考察はまだ終わっていません。貴方が刑法史研究において実り多き成果を得られんことを願っています。アンドレアス・ロート」。このようにロート教授から丁寧なお返事と激励をいただいたことに感謝する次第である。
 アンドレアス・ロートは、1956年7月20日、ドイツ・ミュンスターに生まれ、1987年にヴェストファーレン・ヴィルヘルム大学(ミュンスター)において「集団的暴力と刑法――ドイツにおける大量犯罪の歴史」(Kollektive Gewalt und Strafrecht. Die Geschichte der Massendelikte in Deutschland, Diss. jur. Munster 1987, Erich Schmidt-Verlag, Berlin 1988)を執筆して法学博士の学位を取得し、1993年に同大学において「1850年から1914年までのドイツの大都市における犯罪対策――刑事捜査手続の歴史的考察」(Kriminalitätsbekämpfung in deutschen Großstädten 1850 – 1914 – Ein Beitrag zur Geschichte des strafrechtlichen Ermittlungsverfahrens; aus: Quellen und Forschungen zur Strafrechtsgeschichte, Band 7)を執筆して教授資格を取得した。1994年以降、ヨハン・グーテンベルク大学(マインツ)において家族法および刑法の歴史の研究に従事している。

 二 1933年から1945年までのドイツにおいて、様々な人権侵害と犯罪が行われていた。戦争、人種・民族への差別、異教徒の迫害が国家政策として遂行されていた。それらは法を仮装した野蛮な不法によって支えられた。戦後、占領国が設置した司法機関によって、またドイツの自国の裁判所によって、その克服に着手された。このことは過去の克服ないし不法の清算として知られている。
 1933年から1945年までのドイツにおいて、政治権力によって犠牲を強いられた多くの人々がいた。戦争、人種・民族差別、宗教迫害ゆえの犠牲者であった。これらの人々の権利はその後救済されたのか。それはいかにして進められたのか。このことはあまり知られていない。
 本稿では、1933年2月27日の夕刻に帝国議会議事堂に火を放って建造物を焼損し、それと同時に暴動を引き起こして内乱を企てたとして、逮捕・起訴されたオランダの共産主義青年マリヌス・ヴァン・デル・ルッベの事件を手掛かりにして、ナチスの過去の不法の克服とナチスにより蹂躙された権利の救済・回復の問題が考察されている。ただし、それは単純明快ではない。というのも、ナチの時代には一方で国家社会主義に固有の刑罰法規が制定され、それに基づいて不当に犯罪者に仕立てられて処罰された被害者もいれば、戦時固有の特別刑法によって、平時に比べて加重に処罰された犠牲者もいれば、ナチの時代にあっても一般刑法によって普通に処罰された者もいたからである。その意味では、犯罪行為の性質・内容・傾向は異なるので、一般化・単純化はできない。しかし、いずれもナチ時代の帝国司法省の人事政策のもとにナチ党員やその関係者によって人的に構成された裁判所・検事局のもとで有罪にされた人々である。この人々は、ユダヤ教や共産主義思想からドイツ国家と社会を守り、民族的同質化と社会の秩序維持を図るために、ナチ固有の観念である総統の意思や健全な民族感情を指針に既成の刑罰法規を類推解釈することに長けた官僚法曹の餌食にされた人々である。このようにナチ時代の法構造は、一方で政府が制定した人種刑法や戦時刑罰法令の厳格な適用によって構成されながら、他方で一般刑法の技巧的な解釈・適用によって補完され、総体として国家政策として法を確証し、それを強化するための基盤として成立していた。
 ナチ固有の刑罰法規は、およそ犯罪たりえない行為を犯罪視して処罰する不法であった。そのような法律は「法律の形をした不法」であり、処罰された人は無辜に他ならない。しかし、一般刑法がナチの法構造を補完するものとして技巧的に適用され、国家秩序の維持と法の確証のメカニズムに組み込まれたとはいえ、それによって処罰された行為の多くは、当時の平時においても、また現在においても犯罪として処罰される行為であった。例えば、窃盗のような行為がナチの検察官と裁判官によって処罰されたからといって、有罪判決が破棄されるべきなのか。建造物放火のような行為についてもまた同じことが問題になる。

 三 ヴァン・デル・ルッベは、1933年2月27日の夕刻に帝国議会議事堂に火を放って建造物を焼損し、それと同時に暴動を引き起こして内乱を企てたとして、逮捕・起訴された。それが事実であるとするならば、彼の行為に対しては、暴動目的放火罪と内乱罪が適用され、最高で終身刑を言い渡すことができただけであった(暴動目的放火罪〔ドイツ刑法〈旧〉307条〕の最高刑は終身刑であり、内乱罪〔ドイツ刑法〈旧〉81条〕の最高刑も終身刑であり、両罪が行為単一〔ドイツ刑法〔旧〕73条〕、すなわち観念的競合の関係にある場合、重い刑を定めた罪の法定刑で処断することになっていた。暴動目的放火罪と内乱罪の法定刑は同じなので、いずれの法定刑で処断しても最高で終身刑しか言い渡せなかった)。
 放火行為の翌日の2月28日に帝国大統領ヒンデンブルクは、憲法にワイマール憲法48条2項に規定された大統領の非常権限に基づいて、共産主義者による国家危殆的な暴力行為を防止するために、ワイマール憲法に補償された様々な基本的人権を制限し、さらに刑法〔旧〕307条の暴動目的放火罪の法定刑を死刑に引き上げる刑法改正を含む「民族および国家の保護のための帝国大統領令」(いわゆる帝国議会議事堂放火令)を公布した。3月5日の総選挙で大勝したナチ党は、一方で他の保守党や中間政党を抱き込み、他方で共産党議員を逮捕して議会運営の基礎数から除外して、憲法改正に必要な議席数を確保することに成功し、3月24日に「民族と国家の危難を除去するための法律」(いわゆる授権法)を制定した。これによって、法制定権が立法府である議会から行政府である内閣に移され、政府は議会に諮ることなく自由に法律を制定できるようになった。3月29日、帝国議会議事堂放火令をヒトラーが首相に就任した1933年1月30日から2月28日までに実行された暴動目的放火罪に遡及適用できるようにした「絞首刑と死刑の執行に関する法律」(いわゆるヴァン・デル・ルッベ法)が政府制定法の第1号として制定された。帝国裁判所が1933年12月23 日にヴァン・デル・ルッベに言い渡し、1934年1月10日に執した死刑は、帝国議会議事堂放火令、授権法、ヴァン・デル・ルッベ法という一連のナチ刑罰法規に基づいていた。
 この死刑判決は、ナチの刑罰法規に基づいていたことを理由に破棄できるのか。それとも、共産主義者による国家危殆的な暴力行為の防止という目的によって終身刑が死刑に加重された部分だけが破棄され、宣告刑を通常の量刑に引き下げるだけでよいのか。1998年8月25日に刑事司法における国家社会主義の不法判決を破棄するための法律(ナチ刑事不法判決破棄法)が制定され、2007年2月7日、ヴァン・デル・ルッベに対する死刑判決が破棄された。それはなぜか。ナチの法構造は、一方で政府が制定した反共産主義の刑罰法令の厳格な適用によって構成されながら、他方で一般刑法の技巧的な解釈・適用によって補完され、総体として国家政策として法を確証し、それを強化するための基盤として成立していたが、帝国議会議事堂放火事件における一般刑法の放火罪規定もまた、ナチの法構造に組み込まれたナチの刑罰法規としての性格を帯びていたからなのか。それは明らかではない。「一括破棄」という手法は、被害者の権利を回復・救済する上で効果的に見えるが、無辜に対して判決を破棄し無罪を言い渡すことができない。ヴァン・デル・ルッベが実行犯ではなく、冤罪の犠牲者であったとするならば、彼に言い渡されるべきなのは、有罪判決の破棄だけでなく、無罪の判決である。不法の清算と法の復権の法思想的課題は、残されたままである。

 四 1933年2月27日の時点において妥当していたワイマール帝国憲法116条の罪刑法定主義規定について言及しておきたい。その条文は、次のようなものであった。
 憲法116条 ある行為に刑罰が科され得るのは、その行為が行われる以前にその可罰性が法律によって定められていた場合だけである。
 これに対して、当時妥当していた1871年刑法2条の罪刑法定主義は、次のようなものであった。
 刑法2条  ある行為に刑罰が科され得るのは、その行為が行われる以前に刑罰が法律によって定められていた場合だけである。
 刑法2条によると、行為に刑罰を科すことができるためには、その行為が可罰的であること、さらにその行為に科される刑罰の種類と量が事前に刑法によって定められていなければならない。これに対して、ワイマール帝国憲法116条によると、行為に刑罰を科すことができるためには、その行為が可罰的であることが事前に刑法によって定められていれば足り、科される刑罰が行為時の刑罰に限られないかのように解釈できるようになっている(ドイツ基本法103条2項および刑法1条は、このワイマール帝国憲法116条と同じである)。かりにワイマール帝国憲法116条をそのように解釈するならば、暴動目的放火罪の法定刑を終身刑から死刑に引き上げた帝国議会議事堂放火令を遡及的に適用できるとしたヴァン・デル・ルッベ法は、刑法2条の罪刑法定主義に違反していても、ワイマール憲法116条に違反しているとはいえない(拙稿「ヴァン・デル・ルッベ法における遡及処罰法理の史的構造」杉原泰雄・樋口陽一・森英樹編『戦後法学と憲法・長谷川正安先生追悼論集」〔日本評論社・2012年〕223頁以下参照)。
 ヒトラーは、第1次世界大戦におけるドイツの敗北の末に成立したワイマール共和国、ドイツにイギリス・フランス流の政治体制をねじ込んだ憲法を改廃するために授権法を制定し、政府制定法の第1号としてヴァン・デル・ルッベ法を制定した。これによって法における国民革命が始動したかに見えた。しかし、実はそうではなかった。ヴァン・デル・ルッベ法はワイマール帝国憲法の枠内にあった。その限りでいえば、その法へと収斂された一連の刑罰法規はナチ固有のものであったとは言い切れない。従って、ヴァン・デル・ルッベに対する死刑判決の破棄の理由も改めて考察しなければならない。

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