刑法の歴史を詳しく解説 戦前・戦後において日本の刑法観はどのように推移したのか

はじめに


 戦後日本刑法学の出発点に憲法の価値・理念、その基本原則が位置づけられてきたことは、すでに多くの刑法学者によって指摘されてきたところである。それは、憲法の理念や基本原則が、それまでの戦争とファシズムと専制に奉仕してきた刑法学を克服し、平和と民主主義と自由へと向かわせる生きた指針であるからに他ならない1)。しかし、戦後70年近くを経た今日において、そのことが改めて強調されているのは、刑法学がその指針に基づいて歩んで行くことが容易でないこと、その行方を阻む社会的・政治的な諸力が活発化していることを示している。それは戦前の戦争とファシズムの教訓が風化し、忘れ去られ、新たな形をとって繰り返される危機が増大しつつあることを暗示している。その危機を回避するために、それを推進する現実の動きに抗しつつ、同時に戦前の刑法史の問題性を憲法に基づいて検証し、その残滓を摘出する作業が進められている2)。小論は、このような刑法史の認識方法と刑法の現代的状況の検証方法について、若干の考察を加えることを目的としている。

刑法史認識の死角


 本稿の問題意識は次の点にある。今から20年ほど前、文芸評論家の加藤典洋は、坂口安吾と太宰治の敗戦直後の文学作品を比較して、両者は文学界を支配してきた権威や象徴に対して批判的でシニカルな傾向がある点で共通しながらも、作品において表明された戦前の歴史認識の方法について看過できない違いがあると論じた3)。坂口安吾は、1946年4月に『堕落論』を世に問うた。その冒頭、「半年のうちに世相は変わった」と述べた。何がどう変わったのか。若い兵士は君子のために命を捧げて花と散り、生きて帰った敗残兵は恥辱の涙を流した。しかし、それも束の間、流した涙はすぐに乾き、今では闇市を取り仕切り、金儲けに精を出しているではないか。出兵の日の朝、女性たちは健気な心情で涙を抑えて夫を見送ったが、戦死の知らせを受けた半年後、亡き夫の遺影は消え薄れ、新たな人の面影が胸に宿り始めているというではないか。敗戦から半年の間に確かに世相は変わった。しかし、人間は全く変わっていない。日本人は、敗戦を契機に戦前の国家と社会が大きく変化し始めていること、そして新しい時代が到来しつつあることを体感し、その大きな流れに合わせて自らも変わるべきこと、また自己にある旧い名残りを洗い落とさねばならないことを実感している。しかし、そのような躍動的な変化もまた、時代迎合的に衣替えを繰り返してきた日本人の本性の現れでしかない。坂口はこのように論ずるのである。「無頼派」の坂口が戦後の日本人に向ける視線は非常に冷ややかである。
 しかし、加藤は坂口が戦後の日本人に対して辛辣な批判を加えられたのは、戦後の風の勢いのお陰ではないのかと疑問を呈する。それは次のようなイメージで語られている。戦前と戦後の境目に水門がある。その水門が敗戦によって開かれ、待望の戦後の水が戦前へと流れてきた。平和と民主主義、自由と平等に満ち溢れた戦後の水が、乾ききった戦前へと勢いよく押し寄せてきた。その流れと渦のなかで、日本人は戦前の自分を洗い流し、新しい戦後の世相に適合する。しかし、坂口がそのような時代迎合的な日本人を酷評したのは、自由が枯渇した戦前ではなく、戦後の世相が変化し、自由が溢れる世の中になってからである。その意味において、戦後の日本人像は坂口にもあてはまる。もっとも、加藤が坂口に疑問を呈したのは、彼が戦前に語らなかったことを戦後になって話し始めたしたからではない。戦後の風を追い風にして時代迎合的な日本人像を論ずるのはよいとしても、坂口がその追い風の分を「これは自分の取り分ではない」と、戦後の自分自身から差し引いて論じなかった姿勢を問題視しているのである。何故そのようなことを問題にするのかというと、同じ「無頼派」のなかには、坂口が書いたような文章を戦後一行も書かなかった者がいたからである。それは太宰治である。太宰は、『堕落論』を書いた坂口を意識しながら、「時代は少しも変わっていないと思う。一種のあほらしい感じである」と述べ、戦後の風を受けて日本人論を論ずる坂口を「馬の背中に乗っている狐」に例えて、小馬鹿にした。太宰と坂口の違いはどこにあるのか。太宰の場合も戦前と戦後の間に水門はあるが、敗戦によって水門が開かれても、戦後の水は流れ出さないし、戦後の風も吹かない。敗戦によって戦後は到来したが、それによって戦前の何かが変わったわけではない。戦争があったこと、それに敗北したこと、新しい時代が到来したことは、太宰にとっては何の意味もない。太宰は自分自身が変わらない限り、たとえ水門が開かれても、戦後に適合することなく戦前のままでいるのである。坂口は戦後になり、世相が変わったと言ったが、太宰は戦後においても戦前のままである4)。
 太宰は、なぜこのように頑なな態度をとったのか。戦後の風を受けて世相が変化し、勢いよく流れる戦後の水よって戦前的なものが簡単に洗い流されてしまうとき、新しい時代に飲み込まれ、それに適合するのは主体性を欠いた自己でしかなく、そこに歴史が繰り返される危険性を感じたからではないだろうか。加藤が坂口の戦後の語り口調に太宰の頑固な姿勢を対置させたのは、太宰が自己を通して示した歴史認識に共感しているからであろう。戦後的なものを基準にして戦前を眺めたとき、否定されるべきものとして浮き彫りにされるものは数多くある。しかし、坂口が戦後的なものに基づいて戦前を否定したとき、戦後との同一性が肯定された自己とは、いみじくも坂口自身が述べたように、時代迎合的に衣替えを繰り返してきた日本人でしかない。それは、戦後の法的価値体系を基準にして戦前の刑法の軍国主義的・人権抑圧的性格を総括的に否定し、憲法との同一性を自認する戦後の刑法とどこか似てないだろうか。しかし、太宰は戦後においても戦前の自己を肯定し続けた。それは、戦後の法的価値体系に直面しても、それとの非同一性を肯定し続ける戦前の刑法のようである。戦争とファシズムの教訓の死角になっているのは、この非同一的な戦前の刑法なのではないか。

日本法理運動の歴史的位相


 戦後の法的価値体系に直面しても、肯定され続ける非同一的な刑法とはどのようなものか。例えば、戦前の日本法理運動に関わった刑法学者として、小野清一郎と佐伯千仭がいる5)。小野清一郎は、1891年に生まれ、1919年に東大法学部の刑法講座の助教授に就任し、その後教授を経て、1946年に教職追放の処分を受けた。佐伯は、1907年に生まれ、1932年に京大学法学部の刑法講座の助教授に就任し、1933年の京大事件で辞職後、立命館大学法学部の刑法講座の教授に就いたが、翌年に京大助教授に復職し、その後教授を経て、1947年に同じく教職追放の処分を受けた。この二人の刑法学者が追放されたのは、1940年代の前半に日本法理運動に関与したからである。戦後の風を受けて彼らの刑法学研究を評価すれば、それは天皇中心の刑法学であり、全体主義の刑法学であり、人権抑圧の刑法学であり、戦争政策の刑法学である。それゆえ戦後の憲法のもとで存在することが許されない刑法学ということになる。戦後の法的価値体系は、戦争とファシズムに奉仕した刑法学者を追放する根拠として機能したのであるが、彼らの経歴から窺われるように、彼らは刑法学の研究に従事し始めた時から一貫して天皇制国家の刑法を探求していたわけではなかった。従って、日本法理運動に関与する前の刑法学研究が同じように断罪されたわけではない。小野清一郎は1920年代から30年代の初頭にかけて、新カント主義の価値関係的な概念構成方法に基づいて、当時の刑法学界において支配的であった実証主義的な主観主義刑法学を批判し、構成要件論を基礎にすえた客観主義刑法学を体系化した。佐伯もまた、1930年代にドイツ刑法学を研究し、その影響を強く受け、その時期に構築された客観主義刑法学の体系的理論は現在においても継承されている。人間の主観面や内面に犯罪の本質を見出し、それを刑罰権の発動の根拠とする主観主義刑法学に対して、客観主義刑法学が行為の外部的側面を重視することによって刑罰権の行使を制約することに務めた。その限りにおいて、小野や佐伯の刑法学研究は、現状批判的で、人権保障に資するものであったといえる。
 しかし、そのような彼らが1940年前後から敗戦までの間、日本法理運動に関わったのである。何故なのか。戦争とファシズムこそが時代の本流であり、それに参加・協力することが自己の責務であると確信したからなのか。それとも、戦争中は言論の自由が抑圧されていたため、国家の体制に不本意ながら従わざるを得なかったからなのか。あるいは、自分が関わらなければ、別の誰かが関わるだけであり、それでは抵抗の意味をなさないので、自分が関わって少しでも日本法理運動の勢いを鈍らせられるなら、まだましだと考えたからなのか。日本法理運動に関与した動機の具体的な内容には非常に興味があるが、二人の刑法学者が日本法理運動に関与したことがどのように評価されているかが重要である。例えば、小野の場合、人権保障的な刑法学から日本法理運動に向かったことを「変節」であると指弾することもできるが、あの時代の圧倒的な勢いを思うならば、一人の人間にいかほどの抵抗が可能であったであろうかと論ずるものがある6)。佐伯の場合も、彼が日本法理運動に関与したことは、その研究の経歴のなかでも「異質」な部分と見なし、誰しも偏狭なナショナリズムが支配する戦時化の波には抵抗できなかったと同情的に評価するものがある7)。戦争とファシズムの時代、偏狭なナショナリズムが支配する時代において、それまで主張し続けてきた批判的な刑法学説を主張し続けるのは困難であり、時代の流れに抗しきれず、日本法理運動に関与したこともやむを得なかったというのである。そのような評価の妥当性はさておき、日本法理運動とそれへの関与が総じて戦前の刑法史において異質・変節といった一種の例外状態として認識されていることに注視したい。何故ならば、例外状態とは、日本法理運動の軍国主義的性格や専制支配的性格のことなのであるが、それは戦後の平和と民主主義の風の勢いを受けて、その水の勢いによって洗い流されるべき刑法史の一部として浮き彫りにされたものだからである。しかし、戦前の刑法史にはそれとは異なる部分があるのではないか。戦後の平和と民主主義によって浮き彫りにされないような、あるいは戦前の戦争やファシズムの陰に隠されたもう一つの刑法史があるのではないか。水門が開かれても、風が吹いても、戦後の法的価値体系を前にしても、肯定され続ける非同一的な刑法史があるのではないか。そのなかに戦争とファシズムの危険性が潜んでいるとするならば、それこそが実は戦争とファシズムにとってより本質であり、それを浮き彫りにすることこそが刑法史認識の課題なのではないのか。そうであるならば、もう一つの視線が重要である。法思想や法の基礎概念の深部において戦争やファシズムを支えた具体的普遍を明らかにすることが必要である。戦前の刑法と刑法学が戦争とファシズムを支えたのは紛れもない事実である。しかし、憲法を基準にして戦前の刑法体系から軍国主義的・専制支配的条項や要素を放逐すれば、戦後の刑法と刑法学が平和的で民主的に再生できると安心できるほど、事は単純ではないように思われる。本稿が太宰の坂口批判を援用する理由はここにある。戦前の刑法史に向けられるべきなのは、太宰的な視線である。

法思想における自然主義と価値哲学の挫折


 戦前の刑法史に太宰的な視線を向けるとはいっても、それは容易なことではない。坂口のように、戦後の憲法的価値体系を基準にして戦前の刑法史を総括するならば、その価値観とは相容れない部分、つまり小野や佐伯が関わった日本法理運動に自然と目が向けられる。明治維新以降の刑法学研究、あるいは小野や佐伯の刑法学研究が一貫して戦争とファシズムを目指してきたのでない限り、彼らが関与した日本法理運動は、彼らの刑法学研究のなかでは異質なものとして映り、それまでの研究からの変節であると評価されるのも自然である。しかし、視線が向けられるべきは、戦争とファシズムに直結する日本法理運動だけであってはならない。それとは直接結びつかない刑法史にも目が向けられるべきである。彼らの刑法理論は、一貫して戦争やファシズムを志向していたわけではなかったが、それにもかかわらず、それを志向する日本法理運動へと向かっていったのである。その理由や契機に目が向けられねばならない。戦争やファシズムとの間に直接的な関係があったわけではないにもかかわらず、そこに向かっていった刑法学説の深部にある傾向を明らかにしなければならない。ここで一つの例証として着目すべきなのは、1930年代後半期の小野の刑法学研究である。それは、いわば日本法理運動へと向かう過渡期の刑法学研究である。
 先述のように、小野は研究生活に入った1920年代から新カント主義の法学方法論に基づいて刑法理論の体系化を図ったが、1930年代後半から法哲学の研究に重点を移していった。その時期の小野の法哲学研究に大きな影響を与えた思われるのが、ユリウス・ビンダーの法哲学とハンス・ヴェルツェルの刑法イデオロギー批判である8)。それは、法学方法論における自然主義的で実証主義な傾向や新カント主義の価値哲学的な傾向を批判して、新ヘーゲル主義の立場から存在論的な法理論を主張した点において共通している。ビンダーは、戦前のゲッティンゲン大学法学部の法哲学講座の教授であったが、ヴェルツェルはビンダーの法哲学から影響を受け、それを刑法学批判に援用したと思われる。19世紀末から20世紀初頭にかけて、それまで支配的であった実証主義的な法思想が陰りを見せ、それに代わるものとして価値関係的な認識論を重視した新カント主義の批判的な概念法学が影響力を拡大していったが、この二人のドイツ人は、その抽象的・認識論的性格を批判し、1930年代に新ヘーゲル主義の立場から具体的・存在論的な法概念を主張した。小野は、後に日本法理運動に向かう自己変革の契機をこの方法論の変遷過程に見出したようである。
 ヘーゲルがフランス革命を高く評価して、世界は今や思想の上に立っていると述べたことは有名である。それまで思考の中にだけあった思想や観念が外界において現実化した。前近代の封建的な世界や人間のあり方を批判して、国家・社会はかくあるべし、人間はかく生きるべしと論じた哲学者の思想が現実のものになった。近代の世界においては、かくあるべしという当為とかくあるという存在との間には乖離はない。存在すべきものは、目の前に存在している。また、現に存在しているものは、存在すべくして存在している。現に存在しているものとは別に、存在すべきものを考察する必要はもはやない。近代資本主義の経済活動とその下にある法制度も、生産と分配が安定的に行われている間は、資本主義経済はかくあるべし、その法制度はかくあるべしと考える必要はない。現実に行われている資本主義経済とそれに照応する法制度を実証的に説明するだけでよいのである。実証主義の法思想は、このような近代的な世界観の肯定的側面を反映している。しかし、資本主義経済の矛盾が明らかになるにつれて、存在すべきでないものが存在していることが明らかになる。一方の社会的極には富と権力が集中し、他方の極には貧困と隷属が集積されてくると、存在するものは実は存在すべきものではないのではないか、現実の世界は存在すべきものによって構成されていないのではないか、存在すべきものは今なお観念の世界に留まっているのではないかと実感されるようになる。そして、この観念が現実を認識・批判する基準として肯定的に受け入れられるようになる。法制度・法体系が存在するということと、それがあるべき法制度・法体系であることとは次元の異なる問題であり、法学が研究すべきなのは、存在する法体系に基づいて、あるべき法体系とその理念を構想するこである。現実の世界において存在する法体系が法的理念や価値に適合しないなら、観念的に批判することが法学の実践になる9)。これが新カント主義の法思想であり、批判的観念論と呼ばれる所以である。
 小野清一郎は、研究活動に入った当初からこの新カント主義の法思想を学び、彼が理想とする文化的共同体や文化的正義の観念を基準にして、刑法改正作業に対して批判的な発言を続けていたが、それは一定の言論の自由が許容されていた時代までであって、自由な発言が封殺されるようになってからは批判の調子は徐々に低下していった。その傾向は、1933年の滝川事件以降、顕著になった。

法思想における新ヘーゲル主義の台頭


 新カント主義の方法論に基づいて、あるべき刑法を構想し、発言してきた小野は、戦争とファシズムの傾向が強まり始めた時代にどのような対応をとったのか。小野は理念や価値の世界から現実の世界を批判的に認識する方法論を放棄し、逆に現実の世界のなかに理念や価値を見出すことに努めた。それに理論的なてがかりを与えたのが、ビンダーであり、ヴェルツェルであった。
 第一次世界大戦における敗北から革命へ、そして社会不安からファシズムへと突き進むドイツ社会の流れのなかで、法学研究の視座は、実定法から法的な価値や理念へとシフトされ、さらにはその背景にある国家や民族の精神へと向けられていった。第一次世界大戦に敗北したドイツ国民は、ヴェルサイユ体制のもとにおいて、敗戦国の国民として屈辱的な扱いを受け、それがドイツ人に民族の誇りと自覚を呼び覚ました。ワイマール憲法もまた、西洋近代の合理主義・個人主義の産物でしかなかった。欧米諸国を敵に回して戦った戦争には大義があり、その世界史的意義は今なお生きている。それにもかかわらず、その大義と使命は敗戦ゆえに否定され、民族の誇りと自尊心は汚され続けた。ヒトラーは、西洋世界に対してドイツの民衆の不満が溢れ出した時代に、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制において奪われたドイツ民族の誇りを取り戻すべくドイツ民族の政治運動を推進し、多くの国民はそれに精神的活路を見出し始めた。ビンダーとヴェルツェルは、このような時代に、現実的なものは理性的であり、理性的なものは現実的なものであるというヘーゲルの教えを復興させ、ドイツ民族の国民革命に国家と法の理念・価値を重ね合わせていった。ビンダーは、法思想の研究において新カント主義から新ヘーゲル主義へと衣替えし、その影響を受けてヴェルツェルも自然主義と新カント主義を批判する刑法学を模索し始めた。一般的・抽象的な法の理念など存在しない。それは死せる法である。ドイツにおいて今存在するのは、ドイツ民族のなかに流れる生き生きとした具体的で直接的な法だけである。それがドイツ法である。ドイツ民族の精神こそが、ドイツの国家と法の具体的普遍であり、それなしに国家も法も成立しえない。新カント主義は法の価値や理念を口にしたが、それは現実の周辺を徘徊するだけの実体のない空虚な観念であり、観念的であるがゆえに現実的な力を持ち得なかった。ビンダーもヴェルツェルも、このような新ヘーゲル主義の法思想の旗を掲げて、ドイツの歴史的使命の法学的実践に身を投じていった。
 小野もこの方法を引き継いで、1930年代半ば以降の日本の現実のなかに法の理念と価値を見出していった。それは戦争とファシズムの時代に言論の自由が抑圧されていたからではない。小野は、日本的なもの、仏教的なものに触れるなかで、それまで自己の知性を支えてきた西洋の近代科学、近代法学が陳腐なものに思えたために、日本的なものに目覚めたのである。日本共産党幹部の佐野学らが獄中で発した転向声明に関して小野が書いた評論には、佐野が獄中で仏教書を耽読するなかで、天皇制に帰依していった心の模様が記されている10)。佐野にとって、仏教や国学は奥が深いものであった。青年期に時流であった西洋の近代科学よりも、東洋の智恵の方が含蓄に富んでおり、複雑な事象を単純に非合理なものと切って捨てる短絡さはなく、全体において包み込む包容力を持っていると受け止められた。絶対主義的天皇制は、コミンテルンによれば近代資本主義や共産主義とは相容れないものであり、民主主義・社会主義の日本を建設する途上において打倒すべき対象と教えられた。それは、智恵のない短絡的な教えである。天皇制は、日本人の深層心理の奥深いところに息づいており、日本の歴史をして日本史たらしめ、日本の文化をして日本文化たらしめる支柱である。このように受け止めたのは、佐野だけではなかったはずである。小野もまた、それに気づいたはずである。社会に息苦しさが増し、社会的発言の選択肢が狭めら、力強く推移する時局が決断を迫ってくるなかで、焦る小野が手探りで掴み取ったのが、ビンダーやヴェルツェルの法思想であったのではないか。小野のなかで、徐々に近代法学が終焉を迎え、その超克が始まった。小野は、世界に冠たる日本法学の建設へと向かって歩み始めた。西洋の近代法学によって水浸しにされた日本法学を再建し、その世界史的任務を全うするために、近代を克服する日本法理が法思想の分野において自覚的に展開されたのである11)。
 戦争とファシズムという現象面だけでなく、それを形而上において支えた「近代の超克」が小野をして日本法理運動に向かわせたとするならば、戦前の刑法史を戦後の法的価値体系から総括して、その軍国主義的・専制支配的要素を除去するだけでは問題の解決にはならない。法学における近代性の克服過程をも批判的に分析することが求められている。新カント主義が資本主義的矛盾の思想的反映として蔓延したこと、その根本原因を明らかにするのは観念論的認識論では不十分であること、さらにその思想的反動として新ヘーゲル主義が台頭し、ありのままの現実が受け入れられ、それが理念の現実化であると信じられたこと、その非合理的な現実をも理念的に弁証する存在論へと堕したことの問題を批判し、それに代わる法思想を対置させることが必要である。日本の思想状況としては、京都学派の近代の超克論や安田與重郎などが唱えた近代の終焉論など、1940年代の思想的潮流をその脈絡に位置づけ、批判的に総括する必要があろう12)。それ自体としては、戦争やファシズムに直結する問題ではなかったのかもしれない。しかし、時局が戦争とファシズムへと向かうにつれて、それが世界に伍する日本の躍進として映ってしまったのは、法思想が非合理的な時代精神の誘惑に対して脆弱であったからである。
 法思想において近代を超克する日本的精神は戦後の法的価値体系に基づいて総括されたのだろうか。戦後においてもその非同一性を維持し続けているのだろうか。それは日本法の深層に息づく伝統的な精神文化なのか。それとも封印されるべき危険な思想なのか。太宰的な視線は、問われてこなかった問いに目を向けさせる。

戦前の刑法学


 新ヘーゲル主義は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制において失われたドイツを取り戻す政治運動と結合して、その影響力を拡大した。1940年代の日本法理運動は、直接的・間接的に新ヘーゲル主義の法思想の影響を受けたが、当時の日本はそのような政治課題に直面していたわけではなかった。それと同じ課題に直面しているのは、第二次世界大戦後のサンフランシスコ体制下にある敗戦国・日本なのかもしれない。その意味において、第二次世界大戦後の日本は第一次世界大戦後のドイツと共通している。第二次世界大戦中の日本法理運動を支えた法思想をひも解いていくと、第一次世界大戦後のドイツの新ヘーゲル主義法思想に行き着いたが、その法思想を求めているのは、大義を掲げて戦争に敗れ、失われた日本を取り戻そうとしている今の日本のようである。誇りある国家と民族を守るために、自存自衛の戦争に備えねばならないと政治家が豪語するとき、刑法思想は非合理な神話と幻想に再び誘惑され、戦争とファシズムの前に立たされる。来るべき戦争とファシズムの回避は、刑法思想がその誘惑に対していかに自制的であり続けれるかにかかっている。

*本稿は、2014年3月26日に開催された「第2回 21世紀の国家像と産業・社会シンポジウム・法哲学セッション」(21世紀の国家像と産業・社会研究会主催)において行った研究報告「ドイツ法哲学者ビンダーの法思想」を加筆・補正したものである。

1)例えば、生田勝義『人間の安全と刑法』(法律文化社・2010年)は、刑事立法および刑法解釈・適用のあるべき方向を示す指針として、自由・連帯・寛容などの理念を位置づける。それらは、憲法的理念の探求であるといえる。
2)内田博文『日本刑法学のあゆみと課題』(日本評論社・2008年)は、憲法および国際人権法を基準に据えて、戦前の刑事立法・刑事判例・刑法学説を総括し、そこから日本刑法学の現代的課題を析出する。
3)加藤典洋「戦後後論」『敗戦後論』(講談社・1997年)134頁以下。
4)このことによって、戦後の坂口が戦前の日本と断絶し、太宰が戦前の日本と連続していることが意味されているわけではない。むしろ、太宰の態度に戦後の実存主義的世相が如実に表されていると見るべきである。戦後の実存主義的世相というのは、久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想――その五つの渦』(岩波新書・1956年)によれば、次のように説明されている。1945年8月から9月までの1ヶ月は、明治維新から昭和20年までの80年の日本国家の歴史に相当するほどの振り幅で揺れた。徹底抗戦か、それとも時局収拾かが問われ、その狭間で逡巡したあげく、最後には最も頑強な国粋主義者であった頭山秀三が一億総懺悔を説き、正戦の旗印であった天皇が衣替えをしてマッカーサーを訪問した。頭山秀三、天皇、東久邇、高坂正顕、大妻たかこ、どの人をとって見ても日本軍国主義を担った公人であったにもかかわらず、かつて民主主義者であった時期があったので、戦後の民主主義に適合するのは難しいことではなかった。日本の歴史は、過去百年の間に数回、国家的な温度を変えてきたので、例えば徳富蘇峰などのように百歳近くまで生きてきた人にとっては、昨日まで軍事主義者であっても、必要に応じて民主主義者の時代の体温を呼び覚ますことができたのである。「彼らは温度調節に長じ、決して風邪をひくことのない思想家である」。だが、若者たちは自分の内部の隅々を点検しても、自分が民主主義者であったとか、国際主義者であったという根拠を見出すことはできない。彼らは、大軍国主義の公人の指導に従った小軍国主義者でしかなかった。大軍国主義者は、小軍国主義者の頭を戦争とファシズムの泥沼のなかに突っ込ませておきながら、自分たちだけは平和と民主主義の方向へと路線転換していったのである。久野・鶴見によれば、戦後の実存主義はそのような世相の変化に順応する無節操な思想傾向に対する拒否の態度であり、太宰の戦後の作品を戦後の転向文学に現れた実存主義的傾向の一例として挙げている。
5)日本法理運動における小野・佐伯の刑法理論の特徴を詳細に分析するものとして、中山研一『佐伯・小野博士の「日本法理」の研究』(成文堂・2011)を参照。また、拙稿「歴史と刑法学」立命館法学326号(2009年)1頁以下、同「刑法史における法理学的普遍主義の展開」立命館法学333・334号(2011年)1287頁以下、同「刑法史における過去との対話(1)(2)」法と民主主義462号(2011年)35頁以下、同463号(2011年)82頁以下、同「刑法のイデオロギー的基礎と法学方法論」立命館法学344号(2012年)567頁以下(本田稔・朴智賢編著『刑法における歴史認識と過去清算』〔文理閣・2014年〕122頁以下)参照。Vgl. Minoru Honda, 100 Jahre japanisches Strafgesetzbuch – das japanische Strafrecht in Zeitgeschichte und Gegenwart, in: Journal der Juristischen Zeitgeschichte, 3/2008, S.110ff.; ders., Uberwindung der Moderne im Strafrecht – Entstehung, Entwicklung und Schicksal der japanistischen Rechtslogik vor dem Zweiten Weltkrieg, in: Journal der Juristischen Zeitgeschichte, 1/2010, S.10ff.; ders., Uber den rechtsphilosophischen Universalismus in der japanischen Strafrechtsgeschichte – eine kritische Betrachtung uber den Strafrechtsgedanken Seiichiro Onos in der Zweiten Weltkriegszeit, in: Ritsumeikan Law Review, Nr. 31, 2014, S.1ff.
6)宮澤浩一「小野清一郎の刑法理論」吉川経夫・内藤謙・中山研一・小田中聰樹・三井誠『刑法理論史の総合的研究』(日本評論社・1994年)512頁以下参照。前田朗『ジェノサイド論』(青木書店・2002年)225頁以下は、戦中の小野の刑法思想を「侵略の刑法学」と規定している。これもまた、抵抗と解放という戦後の植民地国の独立と国際関係の変化を基準にした評価である。
7)浅田和茂「タートベスタント論」犯罪と刑罰18号(2008年)36頁、同「佐伯刑事法学の形成と展開」刑法雑誌48巻1号(2008年)75頁、斉藤豊治「刑法史および刑法思想史研究」犯罪と刑罰18号(2008年)129頁等を参照。
8)小野清一郎「ヘーゲル主義的法律哲学――Binder, Grundlegung zur Rechtsphilosophie (1935)」、同「刑法に於ける自然主義と価値哲学」は、いずれも小野清一郎『法学評論(下)』(有斐閣・1939年)に収められている。ユリウス・ビンダーの法哲学については、末川博・天野和夫『法学と憲法』(大明堂・1966年)180頁、竹下賢「法思想における全体主義への道」『ナチス法の思想と現実』(関西大学法学研究所・1989年)3頁以下、Ken Takeshita, Ein Weg zum Totalitarimus. Der rechtsphilisophische Wendepunkt Julius Binders, in: ARSP 79 (1993), S. 237ff., Eckart Jakob, Grundzuge der Rechtsphilosophie Julius Binders, 1996; Ralf Dreier, Julius Binder (1870-1939) – Ein Rechtsphilosoph zwischen Kaiserreich und Nationalsozialismus, in: Recht und Staat – Vernunft. Studien zur Rechtstheorie 2, S. 142ff., Frankfurt am Main (Zuerst erschienen in: Fritz Loos (Hrsg.), Rechtswissenschaft in Gottingen. Gottinger Juristen aus 250 Jahren, Gottingen 1987, S. 435ff.)その邦訳として、ラルフ・ドライアー(本田稔訳)「ユリウス・ビンダー(1870-1939年)――帝国とナチスの間の法哲学者」立命館法学350号(2013年)543頁以下。
9)近代以降の法思想史の歴史過程については、三島淑臣『法思想史〔新版〕』(青林書院・2003年)318頁以下参照。
10)小野清一郎「思想犯と宗教」『法学評論(下)』387頁以下。
11)小野清一郎『法学評論(上)』(1938年)の「序文」では、日本民族には東洋文化と西洋文化の修得者として、新たな極東の文化圏を確立すべき任務があると述べられているが、『日本法理の自覚的展開』(有斐閣・1942年)の「序文」では、日本文化は東洋文化を摂取してきたことによって西洋文化よりも優越していることが論ぜられている。
12)さしあたり、河上鉄太郎・竹内好他『近代の超克』(富士房百科文庫・2004年)、高山岩男『世界史の哲学』(こぶし文庫・2001年)、保田與重郎『日本の橋』(新学社・2001年)、同『近代の終焉』(新学社・2002年)などの日本思想史論や文芸評論を刑法史のコンテキストに位置づける必要があろう。「近代の超克」を哲学的・思想史的に考察したものとして、廣松渉『<近代の超克>論――昭和思想史への一視角』(講談社学術文庫・1989年)参照。

 本稿は、浅田和茂・上田寛・松宮孝明・本田稔・金尚均編集委員『生田勝義先生古希祝賀論文集・自由と安全の刑法学』(2014年9月・法律文化社)193-207頁に掲載されたものである。

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